第3章 人はなぜ貧乏するか(上)別題、人はどうすれば幸福を摑めるか
1 資本金二円五十銭
大阪でパン製造業者として聞えている米谷正次郎氏が創業当時の資本金は、実に二円五十銭でありました。その時、氏は、
「自分は、金がない上に商売の経験も薄いから、朝早く起きて他の人よりよけい働き、よけい節約しよう。」
という決死の下に、夫婦死物狂いになって稼ぎだし、近所の得意先きは勿論、学校、会社、海水浴場、運動会、どこでも人の集まるところなら出掛けて行き、根(こん)かぎり売って歩きましたが、一面にはできるだけ節約をしたのでした。
ある夜、政次郎氏は夫人に向って、
「今日は少し儲けが多かった、久しぶりにうどんでも食べないか。」と言うと、
「どうぞ、あなただけお上り下さい。私はもう少し遠慮いたします。」夫人は微笑しながら言いました。すると氏は、
「おお、よく言ってくれた。私はうっかりして倹約を忘れるところだった。」と喜びました。その後四年間も、うどんを食べなかったといいます。
パン屋を開いてはじめての正月(明治三十九年)に、心ばかりのお祝いに沢庵を買い、他家(よそ)からもらったお神酒(みき)を酌み、雑煮すら節約しました。(巨万の富者である今日でも、正月には沢庵と冷酒を用いて居るということです。)その時、全部の払(はらい)をして残った金が二円五厘でありました。夫婦はそれを押し戴き、これで立ち上るんだと申し合いました。
その後四年経った冬のある晩、大阪の北区に大火がありました。氏は天神橋の上から、消防夫が命がけで働いているさまを見て、同情感謝の思いがひしひしと胸に迫り、店にあるだけのパンを提供して労を慰めてあげようと、東署に出頭して快諾を受け、沢山のパンを車に積み、夫人に後を押させて持って行きました。
しかるに間もなく署からパンの催促がありましたので、不審におもってしらべると、前に持って行ったのは、他署の人々の受持っているところで、東署の人々は堀川を固めていることがわかりました。そこで直ぐにあるだけの金を以て、市中のパンを買い集め、そこへ持ってゆきました。
署長はこの篤志に深く感激し、火災中の佳話として新聞に発表した為め、氏の存在は大阪人の耳目に刻印されたのであります。
消防への寄付で、店には商品も原料もなくなり、一時途方にくれましたが、夫人は万一の場合をおもい、屑などの不用物を売った折々の金の貯えが五円あまりあったので、これを火急の資金にあてました。しかるに火事は米谷氏の店を広く世間に知らせてくれたので客は殺到します。夫婦のてんてこ舞いをしている様を見兼ねた客の中には、店の仕事を手伝ってくれる人も出てくるという風で大繁昌を来しそれからめきめき発展して、今日に至る地盤を築きあげたのであります。
出典:『向上の道―生きる力 第二編』 佐藤義亮(1938・新潮社)
※原文は、旧字旧かな。新字新かなに改める。また、踊り字を正字にするなど一部表記を変える。
※佐藤義亮の著作権は消滅している。
佐藤義亮(さとう・よしすけ(ぎりょう))
明治11年(1878)-昭和26年(1951)
新潮社の創立者。