第4章 人はなぜ貧乏するか(下)
3 ただ努力一つ
さて、かの壮年の男、三度白髯翁の家を訪れますと、今度は立派な座敷に通されました。見ると、屏風、懸軸、額などから、庭の手水鉢、燈籠、飛石にいたるまで、一々贅を尽くした素晴しさに、驚きもすれば羨ましくもなり、福運伝授を受けたら一刻も早く大金を儲けて、あれも求めよう、これも備えようなどと、頻りに考えて、もう一廉の長者になったような気持でいると、白髯翁現れて、
「人の財宝を羨んで、それがために欲心を起すようでは、心が汚(けが)れはてている。そんなことで福徳を得られると思うか、早々、出直せ。」
と、又々ひどく叱りつけられました。
これは叱られるのが当然ですが、多くの人の胸の中には、この男と似た心が、うごめいているようであります。私たちは毛ほども貧乏を苦にしてはならぬ以上、ひとの富に心を惹かれるなどは、愚かな沙汰であること今更いうまでもありますまい。然るに事実は、徒らに成功者を羨んで、一歩一歩向上の道を辿ることを面倒臭がり、ひと思いに高い所に飛びつこうとあせる人が非常に多いようです。
しかしそれは何という馬鹿な事だと一概に笑って退(の)けるわけにはゆきません。最小の努力で最大の結果を摑むのが致富の秘訣だというのは、現代の常識だからであります。が、そんな狡猾な考えで金は儲かるものではないのです。一攫千金を夢見る賭博根性などをだしては、悲惨な運命が必ずやって来て、遂には自らを亡ぼし、一家一族まで、不幸に陥らせることになります。
要するに、人間は命がけで働くより外に何の途(みち)もありません。その真剣な努力の量を数に現わして「十」とすれば、収穫も「十」であり、「百」とすれば収穫もまた「百」となります。天は公平であって、どんな人どんな場合にも少しの妥協がなく、原因と結果とは常に平行して絶対に狂いはありません。だから貧乏のどん底にいて貧乏であることさえ気がつかず、世のため人のためになる正しい仕事に向って、せっせと働きますと、いつの間にか自分の位置は向上し、いつの間にか金も出来てくるものであります。それは正しい仕事に対する天の公平なる報酬であります。
「精出せば氷る間もなき水車(みずぐるま)」という句がありますが、精だして働きさえすれば、金銭の運用滞ることなく、くるくると水車(すいしゃ)のように回るという意味です。思い出したら口吟(ずさ)むのも、己れを鞭(むちう)つ戒めとなりましょう。
金について、序(ついで)に一言しますが、金、金といって、金銭のための人生というような考えは、もちろんいけないのですが、その反対に、金銭を軽視する人を、立派な人格者のように思うのも間違っています。金は、身を立て家を興す上に大事であると共に、国家社会に役立つものである以上、どんな些細な金でも決して粗末に取扱うべきものではありません。バラ銭のままズボンのかくしに入れて無造作に出し入れしたり、机の抽出(ひきだし)の隅に、白銅や銅貨などを、埃にまみれたまま置いたりする人で、金に恵まれたという話は、あまり聞かれまいと思います。
出典:『向上の道―生きる力 第二編』 佐藤義亮(1938・新潮社)
※原文は、旧字旧かな。新字新かなに改める。また、踊り字を正字にするなど一部表記を変える。
※佐藤義亮の著作権は消滅している。
佐藤義亮(さとう・よしすけ(ぎりょう))
明治11年(1878)-昭和26年(1951)
新潮社の創立者。