第8章 平生の用意と緊張
3 生活全部のつながり
力士に於ける、俳優の舞台に於ける、そのすぐれた成績は、平生の緊張の蓄積したものの現われであることは、以上の話で明かになりましたが、それと共に生活全部の緊張が、そうならしめるものであることも、知っていなければなりません。
人は、自分のやっている仕事、――学生ならば勉強、商人ならば商売、官吏ならば官庁の、会社員ならば会社の仕事など、皆それぞれ一生懸命になって努めさえすれば、その外のことはどうでもよいかと言うに、そうは行かないのであります。
分りやすく云えば、――、私の有っている人生は、仮りに一丈の長さで、その本分とする仕事は、一丈のうち三尺だとします。すると三尺だけ緊張して努力すればよい、あとの七尺は――その中には、飲食もあれば睡眠もあり、さまざまの娯楽もありますが、――どんなにだらしなくっても差支えないなどと思うのは大きな間違いであって、一切が緊張していなければなりません。
人の生活は、その一つ一つが全部つながっていて、どこでも引張れば、すべてに影響を及ぼすことは、小石一つ池に投げると、小さな波が動き、それが全体にひろがってゆくのと同じことです。だから立派な仕事は、その生活全部の緊張の結果に外ならないのであります。
昔武士の中でも、特に士道を重んじた人々の日常生活の緊張ぶりは、実に大したものでした。毎朝、肌着や下帯は新しいものと取りかえ、いつどこで体を調べられても恥ずかしくないようにして置く。厠(かわや)で用をたすときは丸腰になるから、万一の場合にと、ちゃんと如意棒などを備えつける。夜は、灯(あかり)のとり具合や刀の置き場所などを考えてから、枕に就く――こんな風でありました。
勿論、今日の世の中にそのまま当てはめられることではありませんが、私たちの生活は、どんな場合も緊張を欠いてはなりません。それは体をしゃちこ張っていることではなく、遊ぶときは大いに遊ぶのも結構ですが、謂ゆる楽んで淫せずで、遊びの中にも矩(のり)があって、溺れるようなことがあってはならないのです。
例えば、碁打ちは親の死目に会われないと昔から言っていますが、実に至言であります。人は娯楽に耽りだすと、仕事を忘れ、自分を忘れ、家庭を忘れ、今少しだ、イヤ今一番だと、あとを引いているうちに、とうとう親の死目にも会えないことになるのであります。
それどころでなく、工場に働く人などは、緊張を忘れると、命にかかわるほどの大怪我をすることさえあります。工場の怪我人は、大抵土曜と月曜の二日に出るそうですが、それは、土曜になると、あすの日曜には何をして遊ぼうかと考え込んだり、月曜には昨日の面白かったことを思い出して、仕事も手につかず、ぼんやりしているうちに、機械に巻き込まれたりして怪我をするのだそうであります。
日曜は気分を転換して、明日から新たな元気で働くための休みであるのに、その日曜のために却って不幸を招くとしたら、私たちの生活は少しも緊張を緩めてはならないことを、痛感させられます。
出典:『向上の道―生きる力 第二編』 佐藤義亮(1938・新潮社)
※原文は、旧字旧かな。新字新かなに改める。また、踊り字を正字にするなど一部表記を変える。
※佐藤義亮の著作権は消滅している。
佐藤義亮(さとう・よしすけ(ぎりょう))
明治11年(1878)-昭和26年(1951)
新潮社の創立者。