第14章 取越し苦労に囚われるな
1 揚子江沿岸の泥水
事変の当初は、暑さがはげしいので、兵士たちは水のないのに、ひどく困らされました。
腐れかかった敵の死骸が重なりあって流れてくると、それに鰻が吸いついている揚子江の泥水を、毛布を二三枚重ねたもので漉して飲むといった状景は、上海ばかりでなく、北支でもよく見られたそうですが、それで腹を痛めた兵士はなかったということでした。
この話を聞く人は、よくそんなことができるものだと感嘆しますが、畢竟、水を恐れている余裕がなかったからであります。ただただ渇きを医することが嬉しくて、
「こんな毛布で漉しただけで大丈夫だろうか。」とか、「悪い黴菌がうようよしていないだろうか。」とか、取越し苦労をする余裕がなかったからであります。
取越し苦労をしなければ、揚子江の泥水は胃腸を少しも害しない良水となる――この事実は何を語るかといえば、人間は強いものだということであります。余計な取越し苦労をしなければ、人はこんなに強いということです。
が、それは戦場だから出来ることであって、ふだん、何事もない時には真似もされるものでないと云う人があったら、私は、万物の霊長である人間は、至強至剛の肉体と精神をもっていることを自覚しなさい――と言ってあげます。
この自覚あってこそ、人は健康に恵まれもすれば、成功も摑めるのですが、それを忘れると、たちまち取越し苦労の捕虜となって、何でもないことを恐れ、やればやれることを躊躇し、結局、失敗者として終らなければなりません。
昔、支那の杞の国に、毎日空を仰いで、
「天は落ちて来ないだろうか。こんなに広い天が落ちて来たら、どこにも逃げる道はないじゃないか。」
といって、食物(たべもの)も咽喉(のど)へ通らないほど心配する男がありました。「杞憂」という熟語は、杞の国の人の憂いというところから出たものであります。
これは極端すぎる例ですが、しかし、来るか来ないか分らないうちに、先き回りして心配をはじめたり、吉か凶か判然しないのに、凶と決めて苦しんだりすることは、多くの人の間に見られるところであります。
これがために大事なエネルギイを無駄に減らし、二度と帰らない時間をわけなく浪費したりすることは、実に勿体ないことであります。私たちは、取越し苦労の絆から速かに脱(のが)れ出なければなりません。
出典:『向上の道―生きる力 第二編』 佐藤義亮(1938・新潮社)
※原文は、旧字旧かな。新字新かなに改める。また、踊り字を正字にするなど一部表記を変える。
※佐藤義亮の著作権は消滅している。
佐藤義亮(さとう・よしすけ(ぎりょう))
明治11年(1878)-昭和26年(1951)
新潮社の創立者。