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『向上の道―生きる力 第二編』佐藤義亮(新潮社)3_04

第3章 人はなぜ貧乏するか(上)別題、人はどうすれば幸福を摑めるか

   4 貧乏神の棲み家

 が、貧乏を苦にしないというのは、貧乏を簡単に「諦め」てしまうことだと取違えては大変です。諦めるというのは、貧乏に負けてしまうことです。よくあの人は貧乏臭いなどと言われますが、貧乏の中から立ちあがる気力が無くなって、何をするにも物ぐさくなると、家の隅々どこを嗅いで見ても、貧乏のにおいがします。貧乏神はこれこそ我が家なりと喜んでやって来ます。
 貧乏神が頑張っていると、たまたま福の神が来ても、入ることが出来ないので門前を素通りしなければなりません。俳人一茶に、
   我が宿の貧乏神もお伴せよ
という句があります。が、一茶のように、貧乏臭くなりますと、こんな結構な家はないと貧乏神は定宿にします。神無月にお前も他の神さんたちと一緒に出雲へ行ったらよかろうと云っても、貧乏神は、あまり住み心地がよいので、いっかなこの家を去ろうとしないでしょう。
 世の中には、貧乏は運命だから、苦しいけれども堪え忍ぶのだ、貧乏神の同居も仕方がないと言って歯をくいしばっている人もあります。こういうのを、克己奮闘だと言って賞(ほ)めるようですが、己れに克つことなどは、到底出来るものではありません。それは瘦我慢です。我慢に肥り我慢なく、皆瘦せ細って行くのは、無理をするので心はとげとげしくなり、健康が失われて行くからです。私達の生活は、水の低きに向って流れるように自然で、少し無理もあってはなりません。では何ういう態(さま)が自然であるかといえば、それは何時も朗かであることです。いつ如何なる時でも、人を嫉んだり、己れを卑下したり、腹を立てたりなどせず、明朗そのものでありたいのです。
 学校を一緒に卒業した友人は、もう立派な門構えの大きな家に入っているのに、自分はこんな見窄(みすぼ)らしい生活をしている、何という情(なさけ)ないことだろうなどと、自ら恥じて、陰鬱になるようでは駄目です。家の大きいのは勿論よいが、小さいのは拭き掃除に面倒がなく、家賃が廉(やす)い上に、隣り近所の交際(つきあい)に張り合う必要もなく、結句経済になるからこれも結構――だ。こんな調子で、平然としていて欲しいのであります。
 これは決して瘦せ我慢ではなく、また貧乏と妥協したのでもなく、少しも貧乏に囚われない姿であります。
「運命を呪うものは運命に呪われる」といいますが、全くその通りであって、貧乏を苦にすれば、いよいよ貧乏になるのが大自然の法則であります。運命を呪う心はどこへも行かず、ただ自らのうちに毒素を生みだすだけであることをしらなければなりません。

出典:『向上の道―生きる力 第二編』 佐藤義亮(1938・新潮社)

※原文は、旧字旧かな。新字新かなに改める。また、踊り字を正字にするなど一部表記を変える。

※佐藤義亮の著作権は消滅している。

佐藤義亮(さとう・よしすけ(ぎりょう))
明治11年(1878)-昭和26年(1951)
新潮社の創立者。

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