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『向上の道―生きる力 第二編』佐藤義亮(新潮社)5_03

第5章 最後の最後まで頑張れ

   3 隠居生活と恩給生活

 お産や病気ばかりでなく、どんな仕事でも頑張り通すか通さぬかによって、運命が岐(わか)れてまいります。
 商売が少し順調に向うと、大へんな喜び方で、ふわふわと足が地についていないほどの浮かれ方をするが、調子がわるくなると、すっかり悄気(しょげ)て、意地も張りもなっくなってしまう、こんな人は決して少くはないのです。
 勝てば兜の緒をしめる、負けては一層心の箍(たが)を固くする。得意にも失意にも、緊張を欠かない、という決意が大事であります。それは畢竟、人間の一生は緊張の連続でなければならないからであります。
 たとえば、人は七十になろうが、八十になろうが、相当の仕事を求めて努力してこそ元気を失うことなく、健康を保ってゆかれるのです。然るに日本の風習として、親が老年になると隠居といって、何一つ仕事をさせないのが、天晴れ親孝行ということになっていますが、何ぞ計らん、これこそ親不孝のどんづまりであります。
 なぜかというに、老年になって、仕事をとりあげられて頑張りができなくなっては、「死」に向って一直線に飛び込んで行く外ありません。親の命を縮めて何の孝行なのでしょう。
 恩給生活に入った人なぞも、余程の緊張を要します。役者が花道を引っ込んで楽屋へ行くと、もう自分の働くべき時は過ぎたと安心するように、これから余生を無事に送ればよいという心になっては、張りも意地もなくなり、一刻一刻に健康を奪われて行きます。
 だから、何か一つの事を成し遂げた人は、みな死ぬまで働きづめに働いて居ります。明治大正の大政治家たちを見るに、ハルピンで壮烈な最期を遂げた伊藤公はいうまでもなく、大隈侯の頑張りも実に素晴らしいものでした。原敬、加藤高明などの諸氏も皆そうですが、後藤新平伯に至っては、最後まで老(おい)の来たことを知らない万年青年でありました。
  昭和四年四月三日、東京で少年団の検閲を行い、その夜の急行で東京を出発、四日の午後一時に、岡山の医学会に出席。四時には岡山を引きかえして、翌五日、東京でモット博士を招待する――。
 これは後藤伯が死の直前三日間のプログラムであったそうです。この時、伯は七十三歳。何という驚嘆すべき頑張りでありましょう。
 そして東京から岡山へ行く汽車の中で、講演の原稿に手入れをしていた伯は、米原付近に来た午前七時頃、突然脳溢血を起して仆(たう)れたのであります。京都でおろされた時、きけない口を僅かに動かして、「岡山岡山」と二言いったそうです。これは岡山へ行って自分の仕事をやらなければならないという最後の頑張りだったろうと思うと、真に頭が下らずにはいられません。
 この頃は、何々予防デー、何々安全週間などと言って、三日とか七日とか、細かに刻むことが流行って居ります。必ずしも悪いことだとは云いませんが、ちゃんとした心構えができて居らず、ただ強いられてその間だけ力むようでは、謂(いわ)ゆる何週間なり何デーなりが終ると、また元の黙阿弥どころか、反動的に却ってだらけた状態になるものであります。
 だから、後藤伯やその他の人達のように、一生頑張り通すべきでありますが、一生などとそんな長い辛抱ができるものかと言う人もありましょう。遠い先きばかりを見るから、そんな考えも出るので、結局は一日一日の頑張りの連続に外ならないのであります。
 例えば、田一反を耕すには鍬(くわ)の数は三万以上、植えつける稲の株数は一万五千内外だそうです。これはえらいことだと驚かずに、ただ一鍬一鍬に緊張し、一株一株に頑張ればよいのです。大きなものに目をつけて、小事を忽(ゆるが)せにするのは、大へんな間違いであることを知らねばなりません。

出典:『向上の道―生きる力 第二編』 佐藤義亮(1938・新潮社)

※原文は、旧字旧かな。新字新かなに改める。また、踊り字を正字にするなど一部表記を変える。

※佐藤義亮の著作権は消滅している。

佐藤義亮(さとう・よしすけ(ぎりょう))
明治11年(1878)-昭和26年(1951)
新潮社の創立者。

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