第6章 世の一切は心の鏡――人を導き人と調和するには
2 青砥藤綱と心の影法師
心というものは、こんなにも強く、又こんなにも広く大きく反映するものとすれば、真に驚くべきことではありませんか。古歌に、
よしあしの心に映る水鏡(みずかがみ)
よくよく見ればわが身なりけり
とあるのは、この世は何一つとして我が心の鏡ならぬはないというのです。その意味を寓したものに、次の例話があります。
滑川で銭を探した話でお馴染の青砥藤綱は、ある晩、寝苦しくて蒲団の上に起きあがりますと、色の真黒な大男が前にいるのです。藤綱大声で、
「人の寝所へ案内もなく入り込む不埒な奴、何者なるか。」
ときびしく咎めましたが、更に返事がありません。藤綱いらだって枕元の棒をとって打とうとすると、その男も棒で向うのですが、構えに少しの隙もないのに、藤綱ふかく感じいり、おもわず持っていた棒を離すと、その男も同じように棒を離すのです。
そのなすところが、自分と寸分違わぬので、心を静めてよく見ると、それは人ではなく。自分の影法師でありました。藤綱、手を拍(う)って感嘆して曰く、
「我れ今、影法師を見て始めて天地の万物は、わが影であることを知った。われ非道なれば、家来はわが影法師となって非道をするであろうし、われ貪れば、影法師である家来は盗みをするに相違ない。われ色を好めば、美女の影に惑わされ、われ善を好めば、賢人の影が集まるであろう……」云々。
これは世の中はみなわが心の鏡であるが、上(かみ)に立つ人の心は、最も強く目下に映ることを語ったものであります。会社などを見ますと(商店も同じことです)、一人の社長、或は幾人かの幹部の心構え次第で、全部の社員がどうにでも動かされるものであることが分ります。
某の会社を訪問した時に会った社員たちが、誰も彼もみな朗かで元気であるなら、その会社は大抵の場合、好調に向っているものと判断して間違いありません。社運がさかんで、潮に乗った社長その人のすばらしい元気が、全部の社員に反映せずにはいないからであります。
その反対に、ある社に行って会った社員たちが、通夜にでも来た人のように、すっかり滅入っているなら、その社の運命は甚だ危(あぶな)いところに居るものと思わなければなりますまい。それは、社業の振わないのに悩んでいる社長の心が社員に反映したのだと想像されるからであります。
目上の心は、かくまで目下に映って行くのであります。
出典:『向上の道―生きる力 第二編』 佐藤義亮(1938・新潮社)
※原文は、旧字旧かな。新字新かなに改める。また、踊り字を正字にするなど一部表記を変える。
※佐藤義亮の著作権は消滅している。
佐藤義亮(さとう・よしすけ(ぎりょう))
明治11年(1878)-昭和26年(1951)
新潮社の創立者。