スポンサーリンク

『向上の道―生きる力 第二編』佐藤義亮(新潮社)11_05

第11章 癇癪の虫を封じる

   5 退一歩の工夫

 この頃の軍艦にはないそうですが、前には、発射して来た敵の水雷をフワリと受けとめて爆発させないために、軍艦の外部に水雷網という装置があったそうです。相手の癇癪に酬いるに、こちらの癇癪を以てしては大騒ぎになるばかりですが、フワリと柔かに受けられると、柔よく剛を制すで、癇癪も消えてしまわなければなりません。癇癪持ちの上役を有った人など、このフワリと受ける工夫が殊に大事であって、それにより出世の道も拓けてゆきますが、それができないと、私の知人の息子のように、折角得た地位を棒に振ってしまうことになります。
 また癇癪の虫が起きたら、一歩退(さが)って自分を客観するのも面白いと思います。忠臣蔵の芝居を見て、師直が憎くて憎くてたまらないとき、一分の余裕があって、ふと自分の姿を見ますと、たかが芝居なのに肩を怒らして今にも摑みかかろうとしている自分が浅ましくもなり、馬鹿らしくもなりましょう。そうなったら熱しきった頭に冷水(れいすい)を浴せかけられた気がして、その刹那に癇癪の虫はどこかへ行ってしまうに相違ありません。私はこれを退一歩(たいいっぽ)の工夫と申します。
 佐久間象山は、常に鏡を懐中(ふところ)に入れて、人が、嘘やでたらめを言ったとき、
「どんな顔をしてそういうことをいうか、よく見るがいい。」
と言って、鏡を出したそうですが、私たちも癇癪を起した時は、鏡を出すまでもなく、自分で自分の顔を想像すると、神経の硬(こわ)張った、目に和かさの消えた、不快な顔が浮んで来て、これはいけないと気持を転換せずにはいられなくなります。
 又、腹を立てたとき、それを口に出すのは、一晩寝てからにすると決めている人もあります。一時の感情でカアッとなったのは、一晩ぐっすり寝て目を開いた時は、もう忘れてしまうこともあるでしょうし、又、思いだしたところで、馬鹿馬鹿しくて二度と取りあげられず、そのまま打ち棄てるようになったりしましょう。

 政党政治家として日本にタッタ一人の傑物といわれる原敬氏が、明治二十三年、一等書記官としてフランス公使館に居ました時、急命に接して帰朝しました。ところが氏を呼び返したのは外務省ではなく、時の農相井上馨伯であることが分り、変だと思いながら伯を訪ねますと、
「わが輩が今度農商務大臣となったので、君を秘書官にしたいと思い、呼び戻したのじゃ。そのつもりで居てくれたまえ。」
と、こちらの意嚮(いこう)など少しも考えず、勝手に決めてしまうその高圧的態度を見ると、生れつきの剛情我慢がむらむらと出かかったとき、兼ねてからの母の訓戒をフト思いだし、
「いずれ熟考の上、お答えいたしましょう。」
と云って引き下りました。その母の訓戒というのは、
「お前のその剛情はどんな失敗を招くかも知れぬから、何でもじっと辛抱しなければならぬ。この辛抱するということを一生忘れぬように。」
というのでありました。で、その翌朝、頭が平静になってから考えて見ますと、自分をわざわざフランスから呼び戻したのも、自分を認めてくれればこそだから、腹を立っては申訳がない、よろしく知己の恩に酬うべきだと、早速井上農相に快諾の旨を申し入れました。
 井上伯は、明治の元勲、政界の大立物です。原氏がこの人に深く知られて、栄達のスピードを速めたことは、言うまでもありません。原氏は過ぎ去った跡を顧みて、やっぱりあの時癇癪を起さないでよかった――そんなことを口にして微笑した日もあったろうと思います。
 西洋に「一オンスの忍耐は、一ポンドの知恵にまさる」という諺(ことわざ)がありますが、いずれにせよ、その人その人の工夫によって、癇癪に耐えて行くことが、実に大切であります。

出典:『向上の道―生きる力 第二編』 佐藤義亮(1938・新潮社)

※原文は、旧字旧かな。新字新かなに改める。また、踊り字を正字にするなど一部表記を変える。

※佐藤義亮の著作権は消滅している。

佐藤義亮(さとう・よしすけ(ぎりょう))
明治11年(1878)-昭和26年(1951)
新潮社の創立者。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

Secured By miniOrange