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『向上の道―生きる力 第二編』佐藤義亮(新潮社)17_04

第17章 職業に信念を持て

   4 会社の重役も役所の給仕も

 今更、職業に尊卑の別なしと、講釈するまでもないことです。朝早く喇叭(らっぱ)を吹いて回る豆腐屋でも、盤台をかついで勝手口を訪(と)う魚屋の御用聞きでも、みな客の需(もと)めるものを充たす大事な勤めをするのであります。
 宮中に参内する時の大臣の燕尾服は堂々としていますが、理髪屋の白い上着も仕事服である以上、やはり立派であります。大学の先生も、役所の給仕も、会社の重役も、百貨店(デパート)の自転車ボーイも、皆立派な職業であって、外務大臣が非常時に外交に肝胆を砕いているとき、その弟さんが石屋で、コツコツ槌を揮っているところに世の中の面白味があります。ただ肝腎なのは、それぞれの仕事に精一杯のまことをこめることであります。兄さんはえらい大臣なら、俺もえらい石屋になるんだという真心がなければなりません。
 人を堕落させ、人の人格を磨り減らすような、おてんとうさんと真正面に顔を向けられない職業の外は、みんな立派なものであります。然るに今なお、政治家や官吏や学者などがえらく、その他のものを卑しむといった封建時代の固陋な考えが、一隅に残っているようであります。
 長い間政党生活をやって、後に貴族院議員に勅選された某氏は、その子息を政治家にして自分の後を継がせようと思っていましたのに、瓜の蔓に茄子(なすび)が生えて、その子息は政治嫌いの音楽好き、而も尺八の方面に行ったのであります。市井遊惰の輩(ともがら)の弄ぶ尺八に耽るとは言語道断だと非常に憤慨して、とうとう勘当を申し渡したのであります。
 然るに、子息は長い間、熱心な修業を積んで、尺八界の聞ゆる名流となり、遂に御前演奏の光栄を担うにいたりました。これを聞いた父の喜びは大変なもので、家門の誉れだと、早速、出入を許すことにしました。
 飛んでもない親不孝だと烙印を捺されていたものが、家門の栄誉を産んだという皮肉なこの話は、職業に高下をつけたがる固陋者への、まことによき「親父教育」でありました。
 服部時計店の創始者金太郎翁は、はじめ父の小さな古道具店の片隅で、こつこつ時計の修繕をやっていました。その時の時計屋という商売は卑しくて、二千万円の大会社の服部になると時計業が俄かに立派になったのでは、もちろん無い筈です。が、どうもそんな風に思いたがる人は決して少くありますまい。
 それは、外形のみを見てその価値を判断する人であります。そういう人は工場のごみにまみれ、顔じゅう黒くして働いている下ッ端の職工を見ると、馬鹿にせずにいられないでしょうが、産業日本の第一線に堂々乗り出した鮎川義介氏がそういう境遇を経て来た人であると聞いたら、さぞびっくりすることだろうと思います。
 鮎川氏の帝大を出たのは明治三十六年。「学士様なら嫁やろか」と唄にうたわれた時代ですから、方々の会社はこの秀才の引張りだしにかかったのですが、氏はそれをみんな断って芝浦製作所へ日給三十三銭の職工としてはいったのであります。始めは鉄屑の掃除、それから仕上工、鋳物工と経て三年ちかくの間、親類や友人などの様々の忠告に一切耳をふさぎ、下積みの仕事をせっせとしたのであります。而も氏が他日の大をなすその基礎は、実に当時において築き上げたものであって、氏が非凡の一面は早く青年時代に発揮されたのでありました。
 目の前に金がどしどし儲かって、そして体裁のいいような職業にばかり走りたがる人への、これは真に頂門の一針であり、同時に職業に尊卑なし、ただ人にありという言葉のよき実例でもあります。

出典:『向上の道―生きる力 第二編』 佐藤義亮(1938・新潮社)

※原文は、旧字旧かな。新字新かなに改める。また、踊り字を正字にするなど一部表記を変える。

※佐藤義亮の著作権は消滅している。

佐藤義亮(さとう・よしすけ(ぎりょう))
明治11年(1878)-昭和26年(1951)
新潮社の創立者。

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