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東條英機(東条英機)の遺言

・長男英隆に宛てたもの。
[]内は、引用者。

 親展 英隆殿      英機
 英隆への遺言        昭和二十年九月三日  予め認む

一、父は茲[ここ]に大義のため自決す
二、既に申聞けあるを以て特に申し残すことなきも、
 1、祖先に祭祀を絶やせざること、墓地の管理を怠る可(べか)らず
 2、母に遠隔しつるを以て間接ながら孝養を尽せ
 3、何なりとも働きを立派に御奉公を全うすべし
 4、子供等を立派に育て御国の為になる様なものにせよ
三、万事伊東に在る三浦氏に相談し援助を求むべし

出典:『祖父東條英機「一切語るなかれ」 増補改訂版』東條由布子(文春文庫)p.65~

東條英機は、昭和20年9月11日に拳銃自殺を図った。心臓を狙い撃ったが、弾はわずかに急所をはずれ未遂に終わる。

・私用御願として家族に宛てたもの(おそらく、これも下記同様、花山信勝教誨師に伝えたものだろう)
[]内は、引用者。

十一月十五日   遺書
花山師と面晤(めんご)機会あるに依り左件を      東條

一、裁判も終り一応の責任を果し、ほっと一安心し、心安さを覚える。刑は余に関する限り当然のこと、 唯責を一身に負い得ず、僚友に多数重罪者を出したること心苦しく思う。本裁判上陛下に 累を及ぼすなかりしはせめてもなり。

二、裁判判決其のものについては、 此の際言を避く、何れ冷静なる世界識者の批判に依り日本の真意を了解せらるる時代もあらん。 唯、捕虜虐待等、人道上の犯罪に就ては、如何にしても残念、古来より有之[これあり]日本国民、陛下の仁慈及仁徳を徹底せしめ得ざりし、一に自分の責任と痛感す。然して之は単に一部の不心得より生ぜるものにして、全日本国民及軍全般の思想なりと誤解なきを世界人士に願う。

三、第二次大戦も終りて、僅か二・三年、依然として現況を見て、日本国の将来に就中(なかんずく)懸念なき能(あた)わざるも、三千年の培われたる日本精神は、一朝にして喪失するものにあらずと確信するが故に、終局に於いては、国民の努力に依り、立派に立ち直るものと信ず。
 東亜に生くる吾は、東亜の民族の将来に就いても此の大戦を通じ世界識者の正しき認識の下に其の将来の栄冠あるべきを信ず。

四、戦死戦病死並びに戦災者等の遺家族に就いては元より連合国側に於いても同情ある救済処置を願いたきものなり。之も赤誠[せきせい]国に殉ずるものにして罪ありとせば、吾吾指導者の責にして彼らの罪にあらず。而(しこう)して吾吾は処断せられたり。彼等を悲運に泣かしむるなかれ。然[しか]も彼等を現況に放置するは遂に国を挙て赤化に追込むに等し、又現在巣鴨にある戦犯者の家族に就いても既に本人各罪に服しあるものなるに於て、其の同情ある処置を与えられたきものなり。ソ連に抑留せられしものは一日も速やかに内地帰還を願いて止まぬ。敗戦及戦禍に泣く同胞を思うとき、刑死するとも其の責の償い得ざるを。

出典:『祖父東條英機「一切語るなかれ」 増補改訂版』東條由布子(文春文庫)p.134


・東條英機の遺言(東條が公的なものとして書いたもの)
(処刑前の最後の面会の際に、用意しておいた文章を東條が読み、それを花山信勝教誨師が書き記した)
[]内は、引用者。

 遺書

開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると実に断腸の思いがする。今回の刑死は個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は死を以て償えるものではない。

しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈服した。自分としては国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。

天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。
元来日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志に依り行動すべきものであったが、一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。
此度の戦争に従事してたおれた人及び此等の人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。心から陳謝する。

今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で事に臨まなければならないのではないか。

此の裁判は結局は政治的裁判で終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
天皇陛下の御地位は動かすべからざるものである。
天皇存在の形式については敢えて言わぬ。
存在そのものが絶対必要なのである。それは私だけではなく多くの者は同感と思う。
空気や地面の如ごとく大きな恩は忘れられぬものである。

東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相協力すべきものである。東亜民族も亦他の民族と同様に天地に生きる権利を有つべきものであって、その有色たるを寧ろ神の恵みとして居る。印度の判事には尊敬の念を禁じ得ない。これを以て東亜諸民族の誇りと感じた。

今回の戦争に因りて東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら幸いである。列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちを以て進むべきである。

現在日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。又日本人が赤化しないように頼む。
大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされねばならぬ。
実は東亜の他民族の協力を得ることが出来なかったことが、今回の敗戦の原因であったと考えている。

今後日本は米国の保護の下に生きて行くであろうが、極東の大勢がどうあろうが、終戦後、僅かに三年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯くの如くである。
今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上もないではないか。

今、日本は米国より食料の供給その他の援助につき感謝している。しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食料の不足などが、米軍が日本に在るが為ためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。
実際はかかる宣伝を為しつつあるものがあるのである。
依って米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。

今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。
第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。
第二には満州を赤化の根拠地たらしめた。
第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因たらしめた。米英の指導者は之を救済する責任を負うて居る。
従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有り難いと思う。

日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に放棄した。これは賢明であったと思う。
しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。然らざれば、盗人が跋扈する形となる(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)。

私は戦争を根絶するためには慾心を人間から取り去らねばと思う。現に世界各国、何れも自国の存在や自衛権の確保を主として居る(これはお互い慾心を放棄しておらぬ証拠である)。国家から慾心を除くということは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。
それ故、第三次世界大戦に於いて主なる立場にたつものは米国およびソ連である。
第二次世界大戦に於いて日本と独乙[ドイツ]というものが取り去られてしまった。それが為、米国とソ連というものが、直接に接触することになった。米ソ二国の思想上の根本的相違は止むを得ぬ。この見地から見ても、第三次世界大戦は避けることは出来ぬ。

第三次世界大戦に於いては極東、即ち日本と支那、朝鮮が戦場となる。此の時に当たって米国は武力なき日本を守る策を立てねばならぬ。
これは当然米国の責任である。日本を属領と考えるのであれば、また何をか言わんや。
そうでなしとすれば、米国は何等かの考えがなければならぬ。
米国は日本八千万国民の生きて行ける道を考えてくれなければならない。

凡[およ]そ生物として自ら生きる生命は神の恵である。産児制限の如きは神意に反するもので行うべきでない。
なお言いたき事は、公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。今は既に戦後三年を経過して居るのではないか。従ってこれは速すみやかに止めてほしい。日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。
我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。
出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。戦犯者の家族には保護をあたえられたし。

青少年男女の教育は注意を要する。将来大事な事である。近事、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少なくない。この点については、我が国の古来の美風を保つことが大切である。

今回の処刑を機として、敵、味方、中立国の国民罹災者の一大追悼慰霊祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者はあろう。此等については衷心謝罪する。

然しこれと同時に無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、米軍側も大いに同情し憐愍(れんびん)して悔悟あるべきである。

最後に、軍事的問題について一言する。
我が国従来の統帥権独立の思想は確に間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない。兵役制については、徴兵制によるか、傭雇兵制によるかは考えなければならない。我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。この点については、大いに米軍に学ぶべきである。学校教育は従前の質実剛健のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切だ。

言いかえれば、宗教教育である。欧米の風俗を知らす事も必要である。
俘虜のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。


 辞世

  我ゆくも またこの土地に かへり来ん 国に報ゆる ことの足らねば

  さらばなり 苔の下にて われ待たん 大和島根に 花薫るとき

出典:『祖父東條英機「一切語るなかれ」 増補改訂版』東條由布子(文春文庫)p.138~


三浦義一に宛てた辞世。

  苔の下待たるる菊の花ざかり

  時に遭はで 散るか吉野の 山桜 延元陵下の 恨しのびて

出典:『祖父東條英機「一切語るなかれ」 増補改訂版』東條由布子(文春文庫)p.48


死刑判決後の面会で妻らに辞世にしたいと伝えたもの。(昭和23年11月20日)
[]内は、引用者。

  君思ふ心いかでか変はるべき千代に守らむ魂となりても

  時に遭はで 散るか吉野の 山桜 延元陵下の 恨しのびて[上記引用と重複]

  続くものを信じて散りしをのこらになんと答へむ言の葉もな志

  国民の痛む心を偲びては散りても足らぬ我が思ひかな

出典:『祖父東條英機「一切語るなかれ」 増補改訂版』東條由布子(文春文庫)p.137


昭和23年12月半ばの花山教誨師との面会で詠んだもの。

  今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ

出典:『祖父東條英機「一切語るなかれ」 増補改訂版』東條由布子(文春文庫)p.136



昭和23年(1948)12月23日午前零時1分、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行(絞首刑)。享年64。

死刑執行の時間については、異なる情報もあった。ただ、重要なのは日付である。わざわざ日付の変わる午前零時をまわった時間に刑を執行している。当時の皇太子(現上皇)の誕生日に合わせるためである。
(「東京裁判」の起訴状の提出(昭和21年(1946)4月29日)は、昭和天皇の誕生日に合わせている)


ほかにも辞世はあるようだ。

「散る花も 落つる木の実も 心なき さそうはただに 嵐のみかは」
(出典不明。知っている方、ご教示頂けると幸いです)

「たとへ身は 千々にさくとも及ばじな 栄し御世をおとせし罪は」

「日も月も 蛍の光さながらに 行く手に彌陀の 光かがやく」
(出典は『東京裁判と東条英機』上法快男(芙蓉書房)か)


[関連]
『祖父東條英機「一切語るなかれ」』東條由布子(増補改訂版2000・文藝春秋)
amazon

東条英機の自伝を調査する。
『東条英機』(上法快男編 芙蓉書房 1975)
 p742 遺言(要旨)の中に、辞世として句一つと歌二首あり。
 「苔の下 待たるる菊の 花盛り」
 「たとへ身は 千々にさくとも及ばじな 栄し御世をおとせし罪は」
 「我行くも 又此の土地に帰り来ん 国に報ゆる事の足らねば」

『東京裁判と東条英機』(上法快男編 芙蓉書房 1983)
 p109 上記資料と同様の内容。

辞世に関する資料を調査する。
『辞世の句と日本人のこころ』(吉田迪雄著 東洋館出版社 2000)
 p153-157〈東条英機〉の項に、上記の他に3首あり。(全5首)
 「さらばなり 苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」
 「幽明の 境を越えて安かれと ともに祈らむ心のどかに」
 「さらばなり 有為の奥山けふ越えて 弥陀のもとに 行くぞうれしき」(処刑前夜)
  ※「たとへ身は」で始まる歌は、絞首台に上る前のものとの記述あり。

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