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藤本弘道『陸軍最後の日』03

大局は動かず

 こうした陸軍最上層部の動きに対して、末端である各地部隊の将兵の動きは如何であっただろうか。
 それは、中央が一般の情報に暗かったと殆ど同様の理由で、中央の情勢動向には暗く、その終戦を判然と知ったのは玉音の御放送があって後のことであったため、そこに動揺があったとしても、十五日以降のこととなるのである。
 彼等はそれまで、ただ本土決戦にのみ馬車馬式に眼を向けていた。そして中央に対する監察眼は閉ざされ、軍人たるものは上司の命令を遵奉してさえいれば決して間違いはないのであるとする軍人教育の実際が忠実に護られていた。
 それでも、ときたま、接触面を持つ一般民間から中央部の面白からざる噂を聞かぬでもなかったが、そうした場合彼等はその噂の真偽をたしかめる以前に於いて、地方人が何を知るか、軍のことが地方に判ってなるものかと、その一切を否定してしまうように習慣づけられていた。
 軍隊が、軍人が絶対に日本の中心であるとする物の見方から、一般世間、大衆を、地方或いは地方人と呼びならし、軍服を最上として背広を商人服といやしめるなど、所謂軍人に非ざれは人に非ずとした態度は、彼等の謂うところの地方からかえって反発的にきらわれ、むしろ東條大将の性格による情報の入手難ということよりも、そうしたことにずっと大きな障害になっていたことは確かである。
 外地部隊に於いてもやはり同様の現象はあった。而もそれが中央部から離れ、絶えず作戦の関係で移動していただけになおさらであった。
 終戦の玉音御放送を聞いた北支軍に於いてもそれが全く予期しないことであり、北支に於いては特に皇軍が敗けているという実情とは全くかけ離れていた状態にあったために、その瞬間に於いてはかなりの対外、対内的の衝動があった。
 玉音の御放送のあることはかねて中央部から通達されていたのであるが、彼等とてもやはりその御主旨となるべきことは現戦局に対する最後の奮闘を御要請あそばさる尊い玉声であろうと考え、当時の北支最高指揮官下村大将は、玉音御放送終了後隷下全部隊に与うるその意味の激励の書を用意していた。しかしその前夜、数日来の支那人の動き或いは重慶側放送の様子から、もしかすると北支軍が考えていることと全然反対の立場になるかも知れぬということに考えついた下村大将は、場所が外地であるところから、もしそうなった場合は即座にこれに対処すべき手をこちらからうたねば大変なこととなると、密かに終戦の場合の訓示及び部隊に対する用意を単独に徹夜で完了、翌日に望んだのである。それがために瞬間的の動揺はあったが、大いなる醜態を演ずることなく、事態を処理することが出来た。
 しかしこれは実に特殊の例で、それとても最高指揮官の軍人的短見を抑制した機敏なる判断の結果が事態の見通しをあやまらなかったということにすぎなく、結局は中央の様子はそれまでに判らず、これに対する万全の対策が考えられていたというのでもない。
 こうした一般の実情にあつたため、全軍が日本降伏の事実を判然とのみこんだときには、もうすべての大勢は決定されており、そこに何らかのものを画策するとしてももはや如何ともすべからざる状態にたち至っていたのである。
 しかも、上御一人の命令に絶対服従すべきことは、日本人である以上当然のことであるとするより以上に軍人の潔癖性となっていたため、大詔に対し奉りとやかくの批判をすることさえ絶対に彼等は謹まねばならなかったのだ。
 だが、これを部分的に見るならば多少の動揺はあったといえる。
 そのなかには、いままで敵として呼んで来た相手と、それもその相手を本土に殪(たお)すために召集せられ配備された自己でありながら、一戦をも交えずして武裝解除に応ずるなどとはもってのほかであるとして、僅か一部隊だけででもかまわない。上陸米軍と一戦を交うべきであると隊長に意見を具申したがその阻止に会い、かっとなって隊長を一刀のもとに切り捨てた下士官があった。
 また航空隊将兵のなかには、何のために俺達は全航空部隊特攻を目指して今日まで訓練を積んで来たのだ、生き恥をさらして何になるか、戦陣訓にも「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と教えているではないか、この時こそ先輩の霊魂に続くべき時であると、米軍艦船或いはマリアナ基地等へ殴りこみをかけようとした者もあった。
 結局これ等の行動は、彼等が大詔に対して批判を加える態度に出たとか軍人の潔癖性を超越したとかいうのではなく、彼等の死生観の一部が突発事故によって刺戟せられ飛躍したのである。
「曰く何百の壮士の死に行くあり。
戦の今日に於て生死の問題は既に遠き観念の問題でなく目前足下の現実問題というべし。
斯くて死ぬ処する心構えを定めんとして世人多くは禅に行き又武士道に行く。
されど云わん。仮令勇猛笑を残して死すと雖も、将亦「本来是空」や「南無妙法蓮華経」や「名を惜しむ」底の悟死なりとせば左様の死は窮極するに私の死たるをまぬがれざるべからず。
要は使命の自覚であり神孫皇民たるの確証なり。
生命奉還としての死、即「大君の辺にこそ死なめ」の死のみが真の死である。
我等は斯くの如き聖死にこそ死なざるべからず。換言せば、湊川の死のみなり。
願わくは笑ってこれを為し得むことを。
されど泣き乍らでも、慓え[「慄」の誤植だろう]乍らでも、ビッコをひき乍らでも、顔色蒼白になり乍らでも可である」
と比島周辺に特攻隊として戦死せる森本秀郎大尉が日記に書いたその気持と同じ気持が、何の反省もなく、ただ死ぬということにだけ集中して現れたもので、むしろ現在からいえば意味の無い、体型のない独断的行動の断片にしかすぎなかったのである。
 これらよりも、十五日払暁、学生を使唆して機銃掃射、放火等によって、鈴木首相官邸及び私邸、平沼枢府議長邸を連続襲撃した、東京警備軍の佐々木武雄大尉一味の事件の方が、暴発的行為とはいいながら、軍人の狷介なものの見方とそれに最初は強要されつつも最後は共鳴してしまった国民の一部が、如何ともすべからざる大勢に抗してまでも我意を張らんとした姿が如実に現われており、むしろ我等としては注目すべきであろう。
 横浜工業専門学校三年生村中諭、同上田雅紹、同石井孝一、同尾崎喜男、東京工業大学一年生川崎吾郎、筏回漕業豊組現場監督福田軍男、横浜機甲隊指導員山口倉吉等はいずれも前横浜工業専門学校長鈴木達治氏の主宰する「必勝懇談会」の幹部だったが、かねて東京警備軍第三旅団隷下旭部隊横浜隊所属の佐々木武雄大尉の講説を聴いて戦局の前途を憂慮していたところ、偶々終戦の大詔が玉音放送せられるその前夜、八月十四日に佐々木大尉より日本の無条件降伏は皇国を滅亡に導くものであり、これを挽回するためには斯くあらしめた鈴木首相及び重臣等を打倒する非常手段に訴えて皇国の降伏を阻止し、陸軍を主軸とする武断派内閣を樹立して徹底抗戦をするよりほかないのであるという勧説を受けて共鳴、彼等は佐々木大尉よりそれぞれ武器を受けとってその実行に参加し、十五日午前四時二十分一同は山口の操縱する軍用トラックに同乗して麹町区永田町の首相官邸を襲撃したが、鈴木首相不在のためその目的を果さず、直ちに小石川区丸山町四〇の私邸に向った。ここで先着の佐々木大尉とその部下将兵約二十名がボロと重油によって放火しつつあったのに協力してこれを全焼せしめ、更に鈴木首相を暗殺せんと探し求めたがそれも果し得ず、同四時四十七分一同は更に淀橋区西大久保一ノ四二の平沼枢府議長邸に向い、鈴木首相邸と同様の行動に出たが、遂に当局の捕縛するところとなったのである。
 こうした諸事件のなかでも、いわば終戦前夜の喜劇とも見られるのは、東部軍管下の一小部隊がとった行動である。
 彼等は玉音の御放送が行われては一大事であると考え、それを阻止するには東京放送局の鳩ケ谷、越ケ谷、新郷の三送信を押えればその目的を達すると考え、十五日午前その三ケ所に闖入し、その二ケ所を押えることに成功したのであったが、他の一ケ所では局員の頓知で、いま停電中であるから送信は出来ないから大丈夫だといわれ、科学知識の欠如からその真偽が判らず、而もその一ケ所さえ送信所が生きていれば送信は可能であることをも知らぬままで約十二時間を経過、結局そのため玉音の御放送は何の差支えもなく行われたのであった。
 以上の如き内地部隊の態度に比して全般的に立派だったといえるのは外地部隊の状況だったといえる。その一例をパラオ照部隊長が中央に打電して来た電文によって紹介しておこう。以下はその電文である。
「曩ニ非常ノ大詔渙発セラレ停戦ノ大命ヲ拝ス。痛恨断腸全パラオ地区ヲ覆フ。然リト雖モツクヅク惟フニ皆我等一億ノ禊祓足ラザルニ因ル。更ニ我等将兵ノ戦力発揮未熟ナリシニ起因ス。ペリリユー、アンガウルノ将兵ハ克ク戦ヒタリト雖モ遂ニ之ヲ敵手ニ委ネタル等全ク我等ノ罪死以上ニ値ス。誠ニ恐懼ノ極ナリ。今停戦ノ大命ヲ拝セントシ万死飽ク迄鬼畜ヲ鏖殺セズンバ止マザルノ烈々タル闘魂封ジ難ク之ガ為武人トシテノ去就ニ関シ意見ナキニアラザルモ従容自若厳乎トシテ大義明分(ママ)ニ就カントス。須カラク私心我見ヲ去リ有ユル感情ヲモ擲チテ只管天皇陛下ノ御命令ノ間ニ間ニ隨順シ奉ル。之以外ニ大義明分ナク臣道実践モ亦ナカルベシ。茲ニ承詔必謹大命下リ次第直チニ隷下全将兵ニ停戦ヲ命ゼ[「ズ」の誤植か]ルト共ニ大命トアラバ内ニ血涙ヲ堪エ長恨ヲ呑ミツツモ矛ヲ捨テシメ而モ兵一員ヲモ剰サズ全員ヲ陛下ノ御下ニ復帰セシムルコトコソ先ヅ第一ニ行ズベキ真乎ノ忠節ナリトノ決意ヲ固メタリ」
 これらの動揺のまつただなかにあって、最も注目されるのは、陸軍中央部であるところの参謀本部、陸軍省の中堅将校の思想或いはその動向であろう。
 そしてそれは阿南陸相の動向と密接な関係があるのである。
 彼等は始めはその一切を梅津参謀総長と阿南陸相に委せて沈黙の態度を続けて、特に阿南大将の人その手腕を信頼して、彼等の考えどおりになるようにその善処を希望していたのである。
 ところが愈々十四日最後の御前会議が開催され、御聖断が判然と下り、阿南陸相敗れ、梅津参謀総長は温順大勢に従うの態度を持するに至った結果を知るに至って俄然その内部の動揺は激越なものとなって来た。
 まずその外部に極端に現われたのはK中佐、S少佐、H少佐を中心とする一団であった。
 彼等は戦争継続を主張する部内の最急先鋒であった。
 彼等は参謀本部、陸軍省軍事課、軍務課の同志とともにこの御聖断を覆えさしめるべく、全陸軍のクーデターを開始すべしと各方面の上司を説服にかかった。
 然し彼等の出端は先ず梅津参謀総長に押えられ、続いて各部局長に説得せられ、特に吉積軍務局長から彼が整備局長兼任の立場から経済的方面からの継戦不可能なる理由を教示せられ、大きな団体として事を起すには不可能な立場になった。
 しかも痛憤止み難きS少佐、H少佐は、市ケ谷台上に人無しとして、腹心の青年将校二、三名と語り合い、十五日午前一時ごろ近衛師団司令部を強襲、遂に宮城を侵犯し奉るの不祥事を惹起させる結果となった。
 S少佐、H少佐等の一団は近衛師団司令部を強襲して師団長森越中将に面会し、彼等の所信遂行に協力を要請した。
 彼等の所信とは何か。
 これも亦前述せるが如き国体護持観の相異から来るものであった。
 そしてその国体護持観の上に立つとき、天皇の上に他の力が加わる場合は絶対に不可能であって、この他の力を排除するものが皇軍の力であり、皇軍の任務は其処にあったのであるから、天皇親政に非ずして国体護持があり得ざる以上、結果として皇軍の全面的武装解除によって国体護持が出来ないことは当然であると彼等は考え、ポツダム宣言を受諾すること自体が国体護持が出来ぬとし、陸軍はこの場合にはむしろ一億玉砕するに如かずという態度をとるべきであると説き、而も陸軍は一億玉砕の覚悟を以て敵を本土にむかえるときは、五百万の主力を持つ兵力が健在にして、飛機また数千機があり、特攻隊員も数万あり、辺土に至るまで築城は堅固を加えある現況から絶対最後の勝利を得ると簡単に確信していたのである。
 然るに朝議は一決して降伏と決定し、皇軍は国体護持の不安を有ちつつ全軍武裝解除の忍苦を受けんとしているという状態になり、皇統が続き、皇位が存続することが国体護持であって、これに外力が加わって親政に不安があろうともそれはさしたる問題でないとするのみか、その主旨のもとに陛下を説き参らせて国民に降伏の事態を正常化して提示せんとする挙に出ていることは奇怪至極であると彼等は考えるのである。
 そして、玉音を放送申上げるということは陛下の御発意によるものとはいえ、玉音を直接国民の耳に聞かさねば承知出来ないのであろうという情勢に立ち至らしめたことは、それ事態健全な政治ではなかった、無理以上無理な御政道を行わしめ奉らざるを得なかったということ、即ち輔弼の実務を背う者としては死を以て諫止申上げねばならぬようなことを聖上に行わせ申したという重大な責めがあるのである。而もこの第一の重大なる失策は、第二、第三と無理を重ね、度々陛下の御力にすがり参らせねばならぬ結果となって、国民をしてむしろお上を恨ましめるという誠に寒心にたえぬ将来が出来ぬとも限らぬ。それのみか、玉音の御放送があると知ったとき、国民の大半以上、否その殆ど全部が一億玉砕せよと仰せられることであろうと考えているという事実を何と解釈したらよいであろう。
 楠公が湊川に玉砕した恨みは藤原清忠、足利尊氏に向けられ、維新開国の恨みは伊井直弼に向けられた如く、今回の結果は降伏を断行せる所謂非戦派巨頭に向けられ、而も明治維新後、開国の結果は、佐賀の乱、熊本の乱、秋月の乱、萩の乱と小乱を重ねて西南の役にまで至ったと同様の結果が起らないとも限らない。
 そう考えるが故に、彼等はそのすべてを未然にふせぎ、彼等の正道と考える道に大勢を進めねばならぬ手段として、先ずその前夜宮中で録音せられた玉音の音盤を奪取して一先ず御放送を中止させ、然るのちに側近を説いて事を運ぶため、近衛師団はクーデターに参加してくれと師団長に説いたのである。
 勿論、森中将は既に大命の下ったその時に於いてこれを受諾することはなかった。
 激情にかられた彼等は師団長を拳銃で射殺し、当直参謀を一室に監禁し、偽師団命令を発して、宮城を守護し奉る宮護部隊を動員して城内衛兵本部を中心に宮城を占拠、蓮沼侍従武官長、加藤宮内省総務局長等を監禁、宮内省、内大臣府等と外部との連絡を遮断、その前夜宮城内で録音せられ、下村情報局総裁が保管している筈の玉音御放送の音盤を奪取せんものと、下村情報局総裁、木戸内府、石渡宮相、大金次官等の行方を求めたのであった。
 然し、宮護部隊の非常動員に比較的時間をとり、近衛師団長射殺の急報にかけつけた田中東部軍司令官の説得にあって、その目的を果すことを得ず、S少佐、H少佐以下幹部四名はその場で自決を遂げてしまった。
 その頃、十五日の朝は、ほのぼのと明け、彼等の信頼していた阿南陸相も自刃して果てていたのである。
 彼等の行動は、その以前、阿南陸相が大義名分の殻を破ろうかと考えて出来得なかったことを、その若さの故に決行して最後の枠を逸脱したもので、全陸軍軍人の一つの型を外部に示した例ということが出来るであろう。
 K中佐は、S少佐等と行動を直接ともにはしなかったが、やはりその主体となる考えは同様で、その考えの結果として、日本の方向を誤まらしめひいては国体護持の最後の線を危くするものは、阿南陸相即ち全陸軍の意思を踏みにじったた重臣達の罪にあるとして、彼等重臣グループを日本から抹殺することが、陛下に対し奉り最大の忠となるのではないかと、この方面に対して直接行動に出るべく計画をすすめていたが、たまたま東京警備軍の佐々木大尉等の一歩先んじて失敗した行動を冷静に批判したときに、その直接行動に出ることが如何に愚かなことであるかを悟り、その尖意を飜えしたのである。
 かくして八月十五日正午、前代未聞の歴史的放送は行れた。
 この玉音を聞いて泣かぬ軍人は一人もなかった。
 そして次の瞬間、彼等の胸にぐっと迫って来たのは、敗戦国の軍人としての、言葉にも筆にもつくされぬ、わびしい、なさけない気持であった。
 昨日まで、帝国陸軍軍人として、どんなみじめな気持で市ケ谷台上に立とうとは誰が考えたであろうか。
 誰しもがおちて行く考えの最後は、武人としての自決ということのみだった。
 将校の一人々々が言い合せたように軍刀の手入れをし、拳銃の掃除をはじめ、身辺の整理をしはじめた。軍属まで将校と同じような行動をとっていた。
 この気持の中で、陸軍航空本部長寺本熊市中将は自決して行ったのである。

出典:『陸軍最後の日』(国立国会図書館)

※[]は、筆者注。
※原文は、旧字旧かな。新字新かなに改める。また、踊り字を正字にするなど一部表記を変える。また、明らかな誤植は筆者の判断で訂正した。

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