必死の時
必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
人は死をいそがねど
死は前方から迫る。
死を滅すの道ただ必死あるのみ。
必死は絶体絶命にして
そこに生死を絶つ。
必死は狡智の醜をふみにじつて
素朴にして当然なる大道をひらく。
天体は必死の理によつて分秒をたがへず、
窓前の茶の花は葉かげに白く、
卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
安きを偸むものにまどひあり、
死を免れんとするものに虚勢あり。
一切を必死に委するもの、
一切を現有に於て見ざるもの、
一歩は一歩をすてて
つひに無窮にいたるもの、
かくの如きもの大なり。
生れて必死の世にあふはよきかな、
人その鍛錬によつて死に勝ち、
人その極限の日常によつてまことに生く。
未練を捨てよ、
おもはくを恥ぢよ、
皮肉と駄駄とをやめよ。
そはすべて閑日月なり。
われら現実の歴史に呼吸するもの、
いま必死のときにあひて、
生死の区区たる我慾に生きんや。
心空しきもの満ち、
思い専らなるもの精緻なり。
必死の境に美はあまねく、
烈烈として芳ばしきもの、
しづもりて光をたたふるもの、
その境にただよふ。
ああ必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
(昭和十六年十一月十九日作。)
出典:『高村光太郎全集 第2巻』(筑摩書房)。新漢字に改める。
※高村光太郎の著作権は消滅している。