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藤本弘道『陸軍最後の日』02

聾桟敷の陸軍

 戦争継続中の国家が、その戦争を打切ろうとする大きな外交の手をうっているときに、その戦争の主体となっている軍、特に終戦直前の如き大きな役割を演じていた我が陸軍たるものが、その詳細を知っていなかつたということは実に全く不可思議なことと言わざるを得ない。
 最高戦争会議は首相がこれを主宰して、参謀総長、軍令部総長、陸、海軍両大臣、外務大臣が参加し、事柄によっては他の各省大臣も隨時参加して国務と統帥の渾一無碍を期して行われていたはずで、これこそ本土決戦必至が叫ばれていた当時としては最も重要なる政治課題として各方面に論議せられ、一般に於いてもしばしば両者が協同を欠くことがありはせぬかと心配されて来ていたところであるが、当時鈴木首相は
「実は今日その点は心配するところは一ツもない。両方の意思は全く渾一している」
と公言確答している。
 それが全く肝腎要のところで一般の心配どうりの不一致を暴けだしてしまっていたということは一体如何したということなのであろうか。
 而もそれに関連して、七月二十八日の内閣記者団と鈴木首相との会見に於て、記者団側の質問として
「アメリカの我が本土に対する艦砲射撃及び機動部隊、B29等による空襲に対し積極的な対策を講じて貰いたいという空気が国民の中に見受けられるが、首相の戦局観如何」
 とあったのに対して鈴木首相は
「そのことに就いて私は最近或る所で、参謀総長、軍令部総長に会ってお話したことがあるが、その時両総長から、軍としては期する所があるのでその考えの下に作戦しているのだからいま暫くは見ていて頂きたいという趣旨の発言があった。私はこれに対して、作戦部としては政戦両略を全面的に考えて行くことは勿論だが、さりとて国民の思惑に拘わることなく作戦遂行に最善を尽されたいという率直な意見を述べた次第である。私は国民一般が戦局の推移に寄せている絶大な関心をよく知っているが、同時に作戦部の自信に就いても非常に力強く感じているのであって、国民諸君に於かれては、軍をしてこの力強き作戦を後顧の憂いなく行わしめることが出来るように、忍び難きを忍んで最大の協力をして貰ひたい。それには軍官民互ひに相信じ、それぞれの職分に於いて力の出し残りのないように銘々お互いの立場を理解して工夫し努力して貰いたい。戦争政治の要諦はこの点にあり、私も日夜思いを砕いている」
と答えて、その頃既に一方では和平工作を行いつつあるにも拘わらず、国民への解答を通じて軍部に対し嘘も嘘、大嘘を吐いてこれを欺瞞したのである。
 そうした悲しむべき結果が如何して生れたのであるかということを考えてみるのに、それはまことに滑稽なくらい簡単な理由によるものであるということが出来る。
 それを一言にしていうならば、東條大将の性格の反映が斯くあらしめたということになるのである。
 東條大将が内閣組織以来、彼の性格の反映が所謂独裁という型となって各方面に互って強く出て来たことは誰もが承知していることであろう。
 たとえば、それを都市防空という点からみても、二つの大きな現れとなって出て来ているのである。
 学童疎開が真面目に軍によって研究せられその早期実施計画が出来上ったのは昭和十八年の十一月のことであった。而もそれは将来の日本を背負って立つ学童の保護という見地から、その保護者である母姉の疎開をもふくめるとともに、輸送計画は勿論、宿舎、食糧事情をも考慮した完全なものであったが、日本の従来の家族制度が禍いして、そうすることによって一家が散りぢりになるという単に表面上から出て来る別離の悲しみのみが強く考えられ、こうした別離を好まず而もその誤った家族主義を謳歌する東條大将は、この問題に対して、そうすることが戦争に、少くともその当時の日本が大きく生きぬかんとするためには絶対必要だということを故意に忘れて、立案責任者に対しては三十分余りに互る家族制度論のお説教をしたのち、学童疎開の絶対反対を表明してこれを中止させてしまったのである。しかしその翌年、空襲の推移はどうしても学童疎開を必要とする土壇場に追い込み、ぎりぎりの処で急に実施されることとなったが、もはやその時には輸送力、地方の食糧事情、受入地の余裕等が全く最悪の場合となっていたため、とにかく疎開出来ればよいという工合にして、学童は都会から追い出されてしまったのである。そのためいまとなって疎開地から帰って来る学童達の姿をみるとき全く暗澹たるものがあり、不必要以上の戦災孤児を出し、栄養失調児を出す結果となってしまった。
 建物疎開にしても亦同様だつた。これも昭和十七年五月頃から計画され研究されていたのだが、戦争遂行を理由として都市計画を行うものであると論ずる都会有力議員達等の間に反対され、どうやらそれも曲りなりに工場地帯を中心に実行に移るところまで漕ぎつけて来ると、土地、建物の権利問題等で、所有者或いは財閥連とごたごたを起し、こうした連中と下らぬ交渉問題を持つことは将来の出世の邪魔になるとして、自分の首にばかりこだわる内務省の役人達は当らずさわらずの態度で進行遅々たるうちに、本年三月十日の夜間大空襲にぶっつかってしまったのである。而もこれ亦東條首相は、その末期に於いて自分の勢力が下火になったのをとりかえさんとしたためか、閣僚間に摩擦が起るのを好まずして、むしろ陸軍部内から都市防空の確立を促進せしめるため建物疎開を軍の手によって実行に移さんとする力を、逆に、それこそ軍閥橫暴の声を高めるものだとしてぐっと押えてしまい、内務省のなすがまま、スローモーションに事を運ばせて傍観している態度に出ていた。
 こうした東條大将の性格の一つの現れとして、彼の好まぬ都合の悪い情報、或いはそういった意見を提供、具申したものは一種の反軍思想者なりと断定せられ、部内に於いては中央から遠ざけられ、部外としてはその職を危くせしめられたという悲むべき独裁ぶりが発揮された時期があった。
 そしてそれは後に於いては一般部外者からは、東條大将のみであるとはせず、陸軍全般の御家風であると曲解されるに至り、所謂「敬して遠ざかる」というたとえの如く扱われ、東條大将の退陣後もそうした風が残され、内閣あたりではこの使いわけが陸軍操縦であると心得るに至ったということを、陸軍軍人自身が知らなかったことに重大原因があるのである。
 この原因の故にソ連との交渉経緯が陸軍の耳に入るのが遅れ、首相の嘘言ともなつたのである。
 この点、陸軍自身もある点では一般国民と同様に、聾桟敷の立場にあったといえる。
 阿南大将は陸相として強硬に戦争継続を主張する一方に於いて、こうした陸軍の欠点ともいえる数々の実情を、各方面からの意見を聴取するうちに次第に知るとともに了解するようになって来た。
 敬して遠ざけられて来た陸軍の悲劇は、陸軍のみのそれではなく、遂には日本全体の大きな錯誤にまで進展していたこと、一般国民と同様に或る面に於いては聾桟敷に追いやられていた陸軍の戦争指導は、日本独特と考えていた精神戦論の実際面に於ける矛盾とともに、挙国一致ということに大きな罅(ひび)を入らしめているという現状にあることにその考えが及んだとき、その主張するところは次第に崩れ、終戦論の妥当性が一応認識されるようになって来たのである。

人間阿南の苦衷

 ここに於いて阿南大将はポツダム宣言を受諾せんとする意向を一応認めるとしても
「天皇の主権を絶対に認めること」
「連合軍を日本国土内に一歩も入れしめざること」
「日本軍の武裝解除は日本軍自体が自主的に行うこと」
の参条件が連合国側に受入れられた暁に於いてのみ終戦に賛成するという条件を政府に提出したのである。
 八月九日夜半の閣議に於いて、この提出案は、鈴木首相、米内海相、東郷外相の反対にあった。
 その第一とする「天皇の主権を絶対尊重すること」に就いては、ポツダム宣言が君主統治者としての天皇陛下の大権に影響を齎すべき如何なる要求をも包含していないと解釈出来る点に於いて格別の論議を必要としない。第二、第参の条件はポツダム宣言を受諾するということ自体に於いて既に問題とならないという理由で、反対というよりは全く抹殺されてしまったのである。
 続いて同夜十一時五十五分から御前会議が開かれた。
 その席上でも、阿南陸相はその所信を披瀝したが、最高戦争指導会議のメンバーの大勢は降伏説に傾き、鈴木首相は陛下に対し奉り御聖断を仰ぎ奉ったのである。
 畏くも陛下には
「阿南は不満でもあろうが、この際多数決をとりたい」
との御旨を述べさせられ
「速かに戦争を終了せしめよ」
との畏き御聖断を下し給うたのである。
 綸言は汗の如し。出でて再び還らざる御聖断に阿南陸相は悶々の日を送った。
 その精神及び信念の基礎となるべきものは陸軍軍人独得のいわば狷介なる軍人精神からであったといえ、各方面から沖縄戦になぜ全力を注がぬかといふ不満の声に対し、本土決戦の最後的勝利を説いて反対を押し切り、ともすれば離れんとする国民の軍に対する信用を繋ぎ止めて来た責任者として、またポツダム宣言受諾を指示した米内海相を叱咤して陸海相克の弊を極端に現した端たなさに対しても、その悩みは深かった。
 而も人間阿南としての意地はさらに強く、日本の大道をあやまらしめた君側の奸を清めて而る後に事を決すべきではないかとも一時は考えたのであったが、そこまで進んでは、たとえまだ全面的に降伏と決定せぬとしても「戦争を終了せしめよ」との御聖断を仰いだ今日、その事を行うは不忠不義の臣の名を末代にまで残すに過ぎぬとする大義名分の殻を打ち破ることは遂に出来ず、ただ来るべき敵側の回答を待ってともかくの態度を決せんと覚悟したのである。
 かくて帝国政府は四連合国に対しポツダム宣言受諾の用意ある旨の提議文を発出し、これに対する相手側よりの正式回答文が到着、十参日の最高戦争指導会議、閣議となった。
 阿南陸相はこの回答文によって改めて天皇主権の問題に就いて論じ、また情報局総裁談として発表された国体護持の問題に対する所信を述べたが、やはり全面的に受け入れられなかった。
 十四日には最後の御前会議が開催された。この席上阿南大将は遂に意を決し恐れ多くも龍顔をおかし奉り、玉座にとりすがって泣いて御聖断の御変更をせまり奉った。
 陛下には畏くも
「阿南よ泣くな。朕にも深く考えるところがあって平和の大道を歩まんと決心したのである」
との有難き御言葉を述べさせられ、ついで既に新聞の報道にあったあの大慈大愛の御言葉を下し給うたのであった。
 此処に遂に阿南陸相の主張、全陸軍の主張は容れられず、その終止符はうたれたのである。
 人の力もて動かし得ぬ大きな時の動きに支配されて、大東亜戦争を終局せしめねばならぬ立場となったこと、そしてそれがそうなる前提としてこれまでの戦争指導の方法その他に陸軍として狷介なるものの見方があったこと等に目覚めて、陸軍の代表たる阿南大将が一応ポツダム宣言受諾を認めるに至ったが、而もなお最後の一線で他の人々と意見を異にし、御聖断の御変更までをせまり奉らんとした挙に出たこと、日本人として、また軍人として、天皇主権、国体護持に対する観念の相異ということが根幹であったといわねばならぬ。
 彼等軍人は、日本の歴史の真底を
「列聖相承ケテ仁恕ノ化下ニ洽ク兆民相率ヰテ敬忠ノ俗上ニ奉シ上下感孚シ君民体ヲ一ニス是レ我カ国体ノ精華ニシテ当ニ天地ト並ヒ存スヘキ所ナリ」
との勅語にあるとなし、この「上下感孚シ君民体ヲ一ニ」し奉ること、即ち天皇に帰一し奉らんとすることを相承して来たるが故に天壤無窮である国体を護持し得て来たのであるとしている。
 そしてその国体なるものは、軍人勅諭にあるところの
「世の乱れと共に政治の大権も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき」
をもってその本姿としているがために、帝国提議に対して四連合国が通告せるが如く
「降伏と同時に天皇及日本政府の統治権は降伏条件の実行に適当と思考する措置を採る連合国最高指揮官によって制限を受く」
べきものなれば、結局は「我国体に戻る」とともに「浅間しき次第」となるのであって、国体護持の絶対性は得られないのみならず天皇の主権の独立も曖昧模糊とならざるを得ない。従って「凡七百年の間武家の政治とはなりぬ」る間に於いても皇統は連綿たり得たるが故に、これをもって国体は護持し得るとするものたちには如何しても判然と賛成出来ぬし、根本的にその国体観が了解出来ない、というのが彼等軍人の考えであり主張であったのである。
 然しその最後に於いて、畏くも陛下御自ら
「卿等は朕の為に図って色々の意見もあろうが、回答の内容は天皇の主権を承認しているものと考える。従って皆もそのように解釈せよ。朕は国が焦土と化することを思えばたとえ朕の一身は如何になろうともこれ以上民草の戦火に斃れるを見るに忍びない」
との恐れ多き御言葉を賜ったことによって総ては決し、日本の臣子として如何なる場合にも聖旨に絶対従い「君民体ヲ一ニス」る本姿よりして降伏は承認せられたのである。
 刀折れ矢弾尽きたという感にうたれながら最後の御前会議の席を退下、陸軍省の一室に閉じこもった阿南陸相は、陸軍として、軍人として、言えることの総てを述べて事態の改善に努力したが、ここに至ってはもはや兎角の論を述べるところではなく、むしろ聖旨の本旨を陸軍全般に通じ、当然起るであろうところのあらゆる現象に対して全責任をもって説得円滑ならしめねばならぬとして、同日午後二時半、梅津参謀総長、土肥原教育総監、杉山第一、畑第二両総軍司令官等と会同し、聖旨を奉じ全軍の鎭撫に努力せんことを決議したのであった。
 然し阿南陸相個人としては、それがたとえ全軍の意思であり、軍人としての国体護持の信念からであるとはいえ、畏くも陛下の龍顔をおかし奉って直諫申上げたのみならず、御聖断の変更を促し奉ったことは、臣子としての本分を戻るのみならず、陸軍の最高輔弼責任者として、国家の最大悲運の局面に対して何等の責任を果し得なかったことは、その罪万死に値するものであるとの自責の念から、十五日午前五時半官邸に於いて、古武士の割腹の制式により見事な最後を遂げた。

一死以て大罪を謝し奉る
   昭和二十年八月十四日夜
   陸軍大臣 阿南惟幾
  神州不滅を確信しつゝ
        
との遺書及び
「大君の深き恵にあみし身は
 言ひ遺すべき片言もなし」
 昭和二十年八月十四日
        陸軍大将 惟幾

の辞世が残されてあった。

出典:『陸軍最後の日』(国立国会図書館)

※[]は、筆者注。
※原文は、旧字旧かな。新字新かなに改める。また、踊り字を正字にするなど一部表記を変える。また、明らかな誤植は筆者の判断で訂正した。

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