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『竹取物語』星新一訳(角川文庫)

『竹取物語』星新一訳、イラスト:和田誠(角川文庫)

1987年
190頁




目次(収録作品)

竹取物語(口語訳)
あとがき
解説

竹取物語(原文)三谷栄一校訂・武田友宏脚注

※2008年に新装版になっている模様。筆者が読んだのは、旧版。(画像・リンクは新装版)

小説家の星新一が訳した『竹取物語』。
よい訳ではない。『竹取物語(全)』か筆者の私訳をおすすめする。

おそらく訳者は、「現代語」訳にこだわり、できる限り古めかしい言葉を用いないという方針で訳したのだろう。しかし、この物語をそのように訳すと格調や時代の雰囲気がそがれてしまってよくない。和歌も登場するので、そのように訳しては、うまくいくことはない。(体言止めが多い文体も個人的に好ましくない)

また、内容説明や「解説」に「忠実」に訳したとあるが、意訳もあるし、原文にはない文章をかなり足してるので、筋は忠実だが、これを忠実な訳とはとても言えない。
また、説明的な部分や解釈を限定してしまっている部分が散見され、それにより奥行きや幅がなくなってしまっている。
以下に、具体例を数例示す。

天人が登場しようとする明るい月の場面。
(p.121)「髪の毛も一本ずつ、見わけられる。」
原文は「毛の穴さへ見ゆるほど」。髪の毛とは言っていないし、毛穴まで見えるほどというリアリティーのある描写を、わざわざ「髪の毛」に変えるのは、まずい訳である。

天人と翁が問答する場面。
(p.123)「じいさんは、無理らしいと知っても、できるだけのことは言った。」
原文は「といふ」「申す」とだけある。翁が「無理らしい」と思っているとしているが、それはどうか。この文脈ではそうは断定できないし、そう断定して訳してよい効果などがあるとは筆者には思えない。

最終盤、天人がかぐや姫を急かせる所。
(p.126)「そう、ゆっくりしてはいられません」
原文は「遅し」。なぜこのように訳すのか理解に苦しむ。ここは、天人はじれったく思い「遅し」といい、対照的にかぐや姫は悠然としているというおもしろい場面で、「遅し」が若干のユーモアも感じられよく効いているのだが。

かぐや姫が去ったあと。
(p.128)「泣きつづけ、涙に血がまざるのではと思われるほどだった(略)」
原文は「血の涙」。「血の涙」も「血涙」も言葉としてあり、当然訳者は知っているはずだが、なぜこのように訳すのか分からない。原文のままの方が筆者はよいと思う。

上記は一例でほかにも結構、疑問に思う箇所や感心しない箇所がある。

[参考]
筆者も『竹取物語』を訳しています。当サイトの支援も兼ねてご購入頂けると幸甚でございます。
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