スポンサーリンク

「非常の時」高村光太郎

非常の時

人安きをすてて人を救ふは難いかな。
非常の時
人危きを冒して人を護るは貴いかな。
非常の時
身の安きと危きとを両つながら忘じて
ただ為すべきを為すは美しいかな。
非常の時
人かくの如きを行ふに堪ふるは
偏に非常ならざるもの内にありて
人をしてかくの如きを行はしむるならざらんや。
大なるかな、
常時胸臆の裡にかくれたるもの。
さかんなるかな、
人心機微のあひだに潜みたるもの。
其日爆撃と銃撃との数刻は
忽ち血と肉と骨との巷を現じて
岩手花巻の町為めに傾く。
病院の窓ことごとく破れ、
銃丸飛んで病舎を貫く。
この時従容として血と肉と骨とを運び
この時自若として病める者を護るは
神にあらざるわれらが隣人、
を守つて動ぜざる職員の諸士なり。
神にあらずして神に近きは
職責人をしておのれを忘れしむるなり。
われこれをきいて襟を正し、
人間時に清く、
弱きもの亦時に限りなく強きを思ひ、
内にかくれたるものの高きを
凝然としてただ仰ぎ見るなり。

(昭和二十年九月四日作。)



出典:『高村光太郎全集 第3巻』(筑摩書房)。新漢字に改める。
※高村光太郎の著作権は消滅している。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

Secured By miniOrange