『日本文壇史』伊藤整(講談社文芸文庫)第1巻~第18巻
『日本文壇史1 開化期の人々』伊藤整(講談社文芸文庫)
1994年
348頁
同時代の文士や思想家、政治家の行動、「そのつながりや関係や影響を明らかにすることに全力をつくした」という菊地寛賞受賞の伊藤整畢生の明治文壇史・全18巻の“1”。
仮名垣魯文、福沢諭吉、鴎外、柳北、新島襄、犬養毅ら、各界のジャーナリズム動かした人々。坪内逍遙の出現と、まだ自己の仕事や運命も知らずに行き合う紅葉、漱石等々を厖大な資料を渉猟しつつ生き生きと描写する人間物語!出典:講談社BOOK俱楽部
『日本文壇史2 新文学の創始者たち』伊藤整(講談社文芸文庫)
1995年
375頁
目次(収録作品)
明治十九年(逍遙と二葉亭と矢崎嵯峨の屋/長谷川如是閑の少年時代 ほか)
明治二十年―二十一年(田口卯吉と徳富蘇峰/「国民之友」創刊 ほか)
明治二十年―二十一年(北海道から上京した露伴/日本訳聖書 ほか)
明治二十二年春(紅葉が「二人比丘尼色懴悔」を書いて文壇に登場する/「新著百種」のこと ほか)
明治二十二年(前年ドイツから帰った鴎外が結婚し、文学仲間と訳詩集「於母影」を作る
その影響を受けた中西梅花、松岡国男、島崎藤村等 ほか)
明治二十二年末(饗庭篁村が「読売」を退く 明治二十三年、新聞「日本」の発刊 ほか)
明治二十三年(露伴の「縁外縁」が発表される 矢野龍渓の「浮城物語」と森田思軒 ほか)
明治二十三年(斎藤緑雨の戯文/露伴の「一口剣」が出る ほか)
明治二十四年(紅葉が牛込の横寺町に移る/岩野泡鳴が東北学院に入る ほか)
明治19年1月、21歳の二葉亭四迷は、不審紙を付けた『小説神髄』を持ち、本郷真砂町に未知の坪内逍遙を訪ねた。その翌年、幼な友達だった二葉亭と山田美妙は奇しくも、時を同じくして日本最初の口語体小説を発表した。紅葉、忍月、露伴、透谷、鴎外等による画期的文学の創造。漱石と子規の出会い。一葉の半井桃水への入門。独歩の受洗。新文学への熱気をはらむ若き群像と文壇人間模様。
出典:講談社BOOK俱楽部
1995年
350頁
明治24年「早稲田文学」創刊。「しがらみ草紙」と2誌を舞台に展開した鴎外・逍遙の没理想論争は、文学青年達に新鮮な感動を与えた。露伴『五重塔』発表。「文学界」創刊。「帝国文学」創刊、一葉『たけくらべ』等発表の28年まで。新しい文学機運の中で透谷、藤村、子規、漱石、独歩、蘆花ら、20代の若き彼らは、文学、恋に苦悩しつつ、自らの人生を生き抜いていた。青春の香り溢れる明治20年代文壇群像。
出典:講談社BOOK俱楽部
『日本文壇史4 硯友社と一葉の時代』伊藤整(講談社文芸文庫)
1995年
333頁
明治28年、露伴が大作『風流微塵蔵』で注目をあび、硯友社系の柳浪、鏡花達の活躍の中で一際輝いた一葉は、29年、絶賛を博しながら24歳の生涯を閉じた。紅葉の『金色夜叉』が読者を熱狂させていた明治30年、藤村が抒情詩集『若菜集』を刊行、独歩は「源叔父」を発表。紅葉、露伴の活動華々しき文壇に、文学史を画する清新な作品が、若い文学青年達によって登場しはじめた。
出典:講談社BOOK俱楽部
1995年
334頁
足尾銅山鉱毒事件が社会問題となりつつある時、博文館、春陽堂と硯友社系の文学者達で成りたった中心的文壇の外で、明治31年、独歩の「武蔵野」発表、子規の短歌革新など、日本文学の根本的改革が始まった。明治33年、蘆花『不如帰』刊行、与謝野寛「明星」創刊ほか、藤村、虚子、鏡花等、明治初年代生まれの文学青年達が鮮烈な文学活動を展開する中、漱石は英国留学に出発した。
出典:講談社BOOK俱楽部
1995年
330頁
明治34年、「文壇照魔鏡」事件と『みだれ髪』への文壇人の誹謗非難は、逆に、新しいロマンティシズムの拠点「明星」を決定づけ、寛・晶子・有明・泣菫らの新風は詩歌時代を創った。諭吉・兆民ら明治初年来の指導者たちが逝き、鴎外・逍遙は文壇から遠退き、低迷した思想文化界に、新しい変化が兆す。明治35年、上田敏「芸苑」創刊、ゾライズムによる天外、花袋らが台頭。臨場感溢れる“明治文壇史”決定版。
出典:講談社BOOK俱楽部
1995年
358頁
明治35年、二葉亭がウラジオストックへ出発。鴎外は『即興詩人』を刊行。36年、漱石は一高、東大の講師となり安倍能成ら、当時最も秀れた青年達の中心に席を定めた。一高生藤村操の自殺は学生、知識人に大きな波紋を投げ、鏡花、天外の活躍のなか、10月、文壇に君臨した紅葉死す。37年、日露戦争に突入。政治・社会の激しいうねりの中に1つの時代の終焉と、新しい文化の鼓動を生き生きと描出!
出典:講談社BOOK俱楽部
1996年
276頁
明治37年記者・花袋は軍医部長森鴎外と同じ船で従軍。与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が論争を呼んだ。作家夏目漱石誕生の画期的近代小説『吾輩は猫である』他が発表された、戦争たけなわの明治38年1月、大塚楠緒子が「お百度詣」発表、晶子・登美子ら共著『恋衣』刊行、度重なる弾圧で「平民新聞」が終刊した。日露戦争下の激動の文壇と、露伴、蘆花、藤村、独歩、堺利彦、乃木希典等々の葛藤を描出。
出典:講談社BOOK俱楽部
1996年
276頁
「ホトトギス」関係の虚子、坂本四方太らや、帝大の学生たちが漱石の周辺に集りだした明治38年10月、象徴詩の源泉上田敏の訳詩集『海潮音』が刊行。翌39年島村抱月らによる「早稲田文学」が1月再刊。3月、藤村は文学史を画する自然主義小説『破戒』を、独歩は『運命』を刊行。社会主義者の動向、蘆花、小山内薫らの活動等、新時代の到来を告げた。“伊藤文壇史”の真骨頂、日露戦後の多彩な文学世界の展開。
出典:講談社BOOK俱楽部
1996年
302頁
明治39年、独歩は短篇集『運命』で作家の地位を確立、啄木は徴兵検査を受けた。漱石『草枕』、二葉亭『其面影』発表。明治40年、“命のやりとりをするような”“烈しい精神”で文学をやりたい漱石は「朝日新聞」入社を決意、大学に辞表を出した。白鳥は新進作家となり、露風、白秋、牧水ら詩歌に新しい才能が出、幸徳ら社会主義者の活動が盛んになった。多岐多彩な文学の流れを遠大な構想で捉える伊藤整の史観。
『日本文壇史11 自然主義の勃興期』伊藤整(講談社文芸文庫)
1996年
282頁
第1章(明治四十年、竹越三叉と徳田秋江/西園寺総理を囲む一流文士の集会の計画 ほか)
第2章(詩誌「白百合」と「白鳩」/野口米次郎の「あやめ草」 ほか)
第3章(山岸荷葉と花袋/花袋と岡田美知代と永代静雄 ほか)
第4章(藤村とその友人たち/「芸苑」の再興 ほか)
第5章(漱石の「虞美人草」/中村星湖の「少年行」 ほか)
第6章(正宗白鳥の「塵埃」/読売新聞社における白鳥 ほか)
第7章(独歩社の破産以後/独歩の病状と「暴風」の休載 ほか)
第8章(茅野蕭々の結婚/安倍能成と友人たち ほか)
第9章(吉利支丹文化の研究熱/与謝野寛ら新詩社一行の九州旅行 ほか)
第10章(少年時代の谷崎潤一郎/潤一郎の青春 ほか)
西園寺が日本のアカデミー・雨声会を開催した明治40年、新文学が明確な潮流となった。白鳥「塵埃」、青果「南小泉村」、三重吉「山彦」、虚子「風流懺法」等が出、朝日入社の漱石は「虞美人草」を連載、白秋、露風ら若き詩人達が活躍し始めた。9月、日本自然主義の方向を決定した花袋「蒲団」が発表され、藤村のモデル問題で暮れたこの時、谷崎らの青春もあった。盛衰・新生、文壇の諸相を重層的に捉える伊藤文壇史!
出典:講談社BOOK俱楽部
『日本文壇史12 自然主義の最盛期』伊藤整(講談社文芸文庫)
1996年
356頁
鴎外が観潮楼歌会を開いた翌年明治41年、1月白秋ら7人が脱退し「明星」は衰退。4月、文壇注目の渾身の力作花袋『生』、藤村『春』の新聞連載開始。花袋らが病床の独歩に贈った『二十八人集』が文壇の主流・自然主義の宣言書となる。啄木が3年振りに北海道から上京。6月、独歩死す。二葉亭宿願のロシアへ向う。漱石、宙外、白鳥、眉山、長江、青果、抱月等々と新文壇の流れに日本近代文学の特性を読む!
出典:講談社BOOK俱楽部
1996年
312頁
青春を謳歌する吉井勇、白秋らとの交遊の一方、生活面全てを金田一京助らの友情で過す啄木は挫折と焦燥に襲われた。その明治41年7月欧米のデカダンスに耽けた荷風帰国、8月『あめりか物語』刊。9月、漱石『三四郎』連載。11月、「明星」終刊。12月パンの会発足。42年1月新浪漫派の一拠点「スバル」創刊、鴎外、白秋、啄木、敏、光太郎ら参加。自然主義最盛期に多彩な個性の萌芽と躍動の源を読む。
出典:講談社BOOK俱楽部
『日本文壇史14 反自然主義の人たち』伊藤整(講談社文芸文庫)
1997年
308頁
若い詩人達が新詩運動に熱中していた明治42年3月、近代詩を画す白秋『邪宗門』刊行。荷風『ふらんす物語』発禁。臨風、宙外ら反自然主義の文芸革新会発足。5月、ベンガル湾船中で二葉亭客死。7月、鴎外「ヰタ・セクスアリス」発表、月末に発禁。9月、露風、詩集『廃園』刊。10月、花袋は名作『田舎教師』刊行。鴎外等その立場を異とする人々の中からも自然主義文学の影響のもと香気溢れる文学作品続々誕生!
出典:講談社BOOK俱楽部
『日本文壇史15 近代劇運動の発足』伊藤整(講談社文芸文庫)
1997年
254頁
明治四十二年、古矢つぎの/伊良子清白/女性の崇拝者たちと夜雨/河井酔茗、小島烏水と夜雨/依田芳枝が夜雨と別れる/山田邦子と横瀬夜雨の交渉/邦子と夜雨の同棲/邦子が夜雨のもとを去る/夜雨の孤独〔ほか〕
自然主義の影響は演劇界にも波及。逍遥・抱月の文芸協会が演劇研究会となった明治42年、小山内薫と左団次が画期的近代演劇集団・自由劇場を創立、秋、鴎外訳「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」試演。漱石は「朝日文芸欄」を創設。43年1月、藤村『家』、上田敏『うづまき』、鏡花『歌行灯』等紙誌を賑わす。横瀬夜雨と「女子文壇」の投稿家たち、赤旗事件後の幸徳秋水ら――社会・文壇とも怒濤の新時代の機運。
出典:講談社BOOK俱楽部
1997年
254頁
明治四十三年、永井荷風の「歓楽」と「すみだ川」/慶応義塾の文学部と森鴎外/上田敏、荷風の関係/荷風が主任教授となり「三田文学」編輯長を兼任/幸徳秋水の革命座談/秋水周辺の主義者たち/秋水と管野須賀子の関係/荒畑勝三と須賀子/宮下太吉が信州へ移る/紀州グループの動き/平民社の動き〔ほか〕
明治43年、荷風は鴎外、敏の推薦で慶応義塾の教授になり、5月創刊「三田文学」の編集長も兼ねた。年長の大石誠之助らとは別に、幸徳秋水の周辺に若い社会主義者達が集った。4月、武者小路、志賀ら「白樺」創刊。6月、秋水逮捕。9月、谷崎ら第二次「新思潮」創刊。11月、パンの大会開催。大逆事件の発端・経緯と日本文壇の関係を勁い意志で究明し明治の終焉・大正文学胎動の諸相を情熱をこめて展開。
出典:講談社BOOK俱楽部
1997年
270頁
明治43年、漱石は『門』連載終了後、8月胃潰瘍の養生先修善寺で大吐血、危篤に陥った。詩・小説で苦闘した啄木は短歌に自由自在に自己を表現。渋川玄耳は「朝日歌壇」を復活させ、その啄木を選者とした。近松秋江『別れたる妻に送る手紙』連載。夕暮『収穫』、牧水『別離』、啄木『一握の砂』刊。明治44年1月18日「大逆事件」判決。24日刑執行。激動の社会と蘆花、露伴、白鳥、柳浪ら文壇人の去就に焦点。
出典:講談社BOOK俱楽部
1997年
266頁
明治44年、蘆花「謀叛論」を一高で演説。与謝野寛「誠之助の死」、佐藤春夫「愚者の死」発表等、大逆事件は大きな衝撃を与え、啄木は思想的変革を来たし、「呼子と口笛」ほかを書き始めた。虚子と碧梧桐の対立。久保田万太郎ら「三田文学」の新人登場。漱石の推薦で、秋声「黴」、長塚節「土」連載。文壇的新たな一様相を端的に描出。
次巻第19巻からは、中道に倒れた伊藤整の遺志を旧友瀬沼茂樹が継承、全24巻で完結。