『日本人が日本人らしさを失ったら生き残れない』谷沢永一(ワック)
2006年2月26日初版発行
193頁
著者は、評論家・書誌学者。(1929-2011)
(p.188)
「日本人全体の過去・現在を通じて、われわれはどういう精神構造を形づくってきたのか。考え方あるいはビヘイビア(行為)についてどんな特質があるのか。それを一生懸命観察したいというのが私の願いである。」
とあるが、残念ながら本書はそれを果たしていない。名が体を表さない本である。
日本の歴史を概観して語っている本で、後半は進歩的文化人や官僚組織などを批判している。
書名と内容の齟齬のことは置いておいたとしても、論が雑でよくない。たとえば、司馬遼太郎の作品を出典に歴史の話をしているのは、とても学者とは思えない。ほかにも「雑」な部分がある。
聖徳太子が煬帝に送った「日出処の天子、書を日没処の天子に致す」の国書について、
(p.20)
「いうまでもなくこれは、高いところの私から低いところのお前に国書をつかわすという態度である。こんなべらぼうな話はあるまい。どんなに相手が憎かろうと(略)国書つまり公文書として書簡を送る以上、こんな言い方はありえない。」
(これは、「日出処」「日没処」は関係なく「天子」という言葉を使ったことに煬帝は、無礼に思ったとか、そもそも煬帝は怒っていないとか色々な説がある。引用のような断定はおかしい。)
(p.42~)最澄が空海が所有する教典を写させてほしいと頼むが、空海は意地悪くことわる云々というくだり。本書の書き方では、空海が一切断っていたように読めてしまうが、実際はほかの機会には別の教典を何度も(たぶん快く)貸していたはずである。
また、この空海のエピソードのあとに「似たような話」として、大学教授が洋書のネタ本を買い占めて自分だけが利益を得るという話をしている(p.43)。筆者は両者が似ているとは思えない。(著者がそのように連想するのは自由だが)
(p.77)
「「地震・雷・火事・親父」という言葉があるが、あそこでいう「親父」とは「お父さん」という意味ではない。名主であり庄屋である。」
(断定しているが、筆者が知るかぎりこの「親父」の由来は未詳のはずである。著者が主張する論拠の文献などは恐らくない筈である。)