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日本の都市(十一)~(十三)甲府市

日本の都市(十一)~(十三)(「東京時事新報」明治44年(1911)12月25日-27日)

日本の都市(十一)
甲府市(上)

甲府は文禄年間豊臣氏の其臣(しん)浅野長政を甲斐に封じたる時、長政小山(今の甲府)に築きて之を治めたるを開市の初(はじめ)とし徳川氏に至り平岩親保一時之を管したるも程なく大久保長安代官として州事を見たり、長安は猿楽師の家に生れたる者なるも理財の才あり州内の金鉱を拓きて吹所(ふきしょ)を建て以て貨幣の鋳造に当る用金と称するもの是なり、降て宝永二年柳沢吉保の漸く君寵を得るに及び新(あらた)に十五万石を賜わりて入府し子孫百世の基(もと)を固うせんと欲して府城を修理し廓の内外を整う、則ち士民百工の力を伸べんとする者悉く城下に集まり甲府の充実蓋(けだ)し此時を以て完成すと云う、柳沢氏郡山に転封の後は再び幕府の公領となり勤番支配を置きて城廓を守らしめ民政は凡て代官に於て之を司りつつ遂に王政維新に及べり、維新後は一度び甲府庁を置かれたるも直ちに山梨県と改まりて其治下に入り始めて市制の施行を見て独立の自治区となりしは去二十二年七月の事に属せり
市制施行の当時に於ける甲府の状態は実に萎靡(いび)として振わず其名は武田氏の武名と共に普(あまね)く海内に喧伝せらるるも其実は極めて寂莫荒涼の一市街にして周囲の村落二三を併合して漸く市制施行の資格を具備するを得たりしなり、然るに社会の進運は此峡中の別天地をも見遁すこと無く殊に貨殖に於ける国人の技術は次第に発揚して以て中央の一大勢力を形成するに及び市勢の発展恰も朝暾(ちょうとん)の昇るが如く、就中教育制度の如き二十年前二小学校を以て多少の余裕ありしものの今日は七小学校の設備を立てて猶且つ狭隘を感ずるの観あり、又市区改正の結果或は道路の幅員曲折を改修し或は新路を開鑿して交通往来の利便に供し或は家制上の規定に基きて之が改築修理を励行する等着々として旧時の面目を一新せんとす
市の衛生行政上最も重大困難の問題たりし上水道工事に就ては後段に詳述すべければ暫く措き之を外にする各般の衛生設備に就ても何(いず)れも相当の注意を為す中にも汚物掃除、衛生講話等内外両方面に於ける施設は決して些の怠慢あるを許さず又勧[業]に在ては幸に民間の当業者と協力して品評会、共進会等を開催し其改良進歩に努めつつあり殊に去三十六年六月中央東線開通し四十二年四月歩兵第四十九連隊の設置あり市況俄かに殷盛を来したるに加えて本年五月には更に中央線の開通あり北信関西両方面との交通は茲(ここ)に一新紀元を画るしたるが故に今後予て企図せられつつある甲駿鉄道にして実現せらるるに於ては甲府の将来は更に刮目[して]見るべきものあらんか試み□□□□進歩を証明すべく其今昔を表示すれば左の如し

(表。省略)

二十二年初めて市制を施行したる第一代の市長は財界に於ける所謂甲州派の中堅たり又明治貨殖傅中の一偉材として目せらるる若尾逸平翁之に当りたるも住職僅に一年に充たずして止み爾来高木忠雄石原彦太郎、小林董作、若尾民造の諸氏相継ぎて四十年四月に至り往年自由党の古猛者加藤平四郎氏挙られて其職に就けり加藤氏は作州勝山藩の人、少壮身を政界を*投じて自由民権論を主張し同志と共に普く海内を周遊して之が論道鼓吹に当りたる末は二十年の保安条例に由りて□□□□□□居ずと傘の中へた入□□□
帝京を追れ又出版条件の違反として石川嶋の獄舎に繋がれたる事あり二十三年岡山県第七区より選出せられて初期議会に入り爾来同所より代議士たること前後四回、三十一年憲政党内閣成るの時静岡県知事に任じ次で山梨県知事に転じ程なく休職となる後年甲府市長の就任を諾したるもの氏が知事在職中市に上水道布設の急務を勧告したる関係あるを以て市は其事業を遂行せんとするに当り加藤氏を載くを以て便宜と為したるに基く氏又其意を体して市長の椅子に倚り鋭意水道事業を完成せんとする其状勢は別項に於て之を記さん

[筆者注]
*「に」の誤植か。


日本の都市(十二)
甲府市(中)

市の普通教育は相生、新紺屋、六切、湯田、春日の五尋常小学並に富士川、琢美の二尋高併置小学の七校にして児童総数六千三百余之を尋常科九十六学級高等科十学級に分ち百十八名の訓導准訓導ありて専ら教養のことに当る就学歩合は男女平均九十九人六九にして正教員の俸給平均額男二十七円十四銭女十五円十二銭たり特業教育には甲種程度の市立商業学校ありて在学生徒約三百人東京高商出身の山崎弥久太郎氏校長たり開校以来已に二百四十人の卒業生を出して其評判悪しからず右の外(ほか)小学校に付設せる市営の子守学校には生徒百七十余人を収容し相生小学内にあるものは昨年特に文部省の推奨を得たり又幼稚園は巾幗社会の傑物進藤つる子の独力経営せるもの並に加奈太伝道会社設立にかかる山梨英和女学校内に設置せらるるものの二あり盲人教育の為には琢美小学校長手塚語重氏の尽瘁せる盲人教養所あるも在校者三十人内外にして未だ盛なりと云べからず一般社会教育の機関としては山梨教育会の付属たる箱殿城内の図書館並に市費の補助に浴する私立市教育会の講習会講話会及び青年夜学会等あり何れも相応の成績を挙ぐるが如し
中央線開通以来甲府市の風紀は其影響を京浜の諸都市に受けたること尠少に非ざるが如し即ち交通の利便に由りて是等都人士の好尚流行は忽(たちま)ちにして浸入伝播し来るに加えて製糸工業の発達は中流婦人の収入に著大の増額を齎したる傾向あるが故に□が自然の結果として劇場寄席等の娯楽機関次第に繁栄を増し其設備又随て改良せられたる中にも劇場にありて桜座は規模の大を以て誇り巴座は経営の敏を以て之に当れり寄席には稲積亭競花亭共に新築落成して旧観を改め昨今流行の一たる活動写真には甲府館と呼ぶ常[設館]あり山梨音楽会又折々洋楽の演奏を□□□□るが一般の嗜好未だ洋楽に向わざるは遺憾とすべし以上の外(ほか)風紀事業としては大日本実行会山梨支部及び山梨基督教婦人矯風会なるものあり前者は三十三年の創設にかかりて会員五百数十名専ら教育勅語の御趣旨を遵奉して国民の品性を陶冶涵養せんと欲するもの後者は三十一年十一月の設立にして禁酒禁煙只管(ひたすら)に公私道徳の啓発進捗を図るを以て目的とし会員数十名を有せり
甲府市の上水は遠く徳川時代寛政明和年間よりして荒川流水を使用したる事跡あり而して維新以降県治の首府となりて戸口漸く増加したると殖(ママ)興業又日を追いて隆盛の機運に向いたるとよりして明治八年其筋の認可を得工費約一万円を支出して荒川上流大宮村より大溝渠を開鑿して市内に通水し用水規則を制定して水路の保護監督を為したる事あり現今尚お之を存置すと雖も右は露溝にして途次汚水の浸入に逢い又は降雨の都度濁水流入にして到底飲用に堪ゆ可(べか)らざるが故に市民は止むを得ず御膳水と称する鑿井水(さくせいすい)を購入して飲料となすも供給不十分にして一朝旱魃の時に逢えば惨状譬うるに物なし去れば完全なる上水道を敷設するの議は夙(つと)に市内有志の間に発生したる問題にして去二十五年には之が調査費を予算に計上し翌二十六年には内務省傭技師バルトン氏の派遣を請いて実地の視察を遂げしめ二十八年には県技師に依嘱(いたく)して荒川の水量貯水池の位置等を調査し三十三年に及び水道調査委員規定を制し三十四年工事設計の大体を終り三十六年工費予算の再調査を行いたるが異論百出容易に決定に至らずして四十年加藤現市長の就任を見るに至れり
加藤市長が殆ど上水道完成を一条件として市長に推されたる事は茲に之を云えり去れば氏は就職の後ち直ちに直門技師を置きて工事の設計に着手し四十一年八月には三箇年継続総工費約八十七万五千円の予算を議定して政府に認可申請を為し併せて国庫及び県費の補助を乞えり政府は慎重審議の後翌四十二年四月に至り之を認可し国庫は二十一万八千円県費は十万円の補助を交付すべく決定せしを以て市は更に予算の編制換(がえ)を行い総工費と八十九万円に改め国庫県費の補助以外は悉皆市債に由りて之を支出するに決し四十二年十一月七日金風颯々の裡に起工の式を挙げて爾来着々工事中にあり明年三月に至らば市民は悉く氷の如き荒川の清水を飲用するを得べけん
上水道は近く完成の域に進みたるも下水道は溝渠の浚渫掃除等の外(ほか)何等見べきの設備を有せず防疫事業は市内に五十二箇の衛生組合を設置して各自衛の道を講ぜしむると共に飲食物の注意健康状態の検閲等を行い一朝(いっちょう)伝染性の疾患発生すれば直に伝染病院に収容して患家の消毒厳重を極む伝染病院は往年虎疫赤痢共に大に流行したる事あるを以て設備決して小ならず優に二百人を容るるの用意あり汚物掃除は一般焼棄法を用いて清潔保持に努るも道路散水の設備なき為め風塵濛々行人を悩ますことあるは遺憾なり県庁には食品検査の官吏あり警察官と共に市内を巡視して器具売品の検査を行う浴場は凡て私人の経営なるも其改築修理には厳重なる監督を施せり市民の習俗一般に土葬を行うを以て寺院付属の墓地未だに減少せず為めに衛生上の危害を発生せんことを懼れ市は先ず火葬場を改築拡張して然る後(のち)成るべく火葬の習法を馴致せんものと今や其準備中にあり


日本の都市(十三)
甲府市(下)
甲府の公園は悉く県営にして市と財務上の交渉を有せざるが市民行楽の場処たる関係上又た多少の記述を要するべきものありと信ず即ち一を太田公園と云い遊行念仏の名道場として知られたる一蓮寺の境内を割きて花卉を植え樹木を栽(う)えたるもの、二を舞鶴公園と称し旧城址を拓きて散策眺望を恣(ほしいまま)にするを得るの設備を立てたるもの、三を古城公園と呼び市の北方半里余りに往昔武田氏の拠りて以て甲信に号令したる有名の地域なるが今や全く廃墟となりて信玄の壮図も唯一法性大明神の小祠に残れり去れど岡巒三面を繞りて相川、濁川の二渓此間に発し山水の風趣決して凡ならざるに加えて一木一石も亦無言の裡(うち)に元亀天正の史実を物語るが如くに見ゆ位置稍や市街と遠ざかるも杖を曳くの価値は十二分に存せり
市営の救済機関としては毎年の経費約八百円を要する市立救護所なるものあり行路病人の収容、精神病者の監督、棄児(すてご)の保育、窮民貧民の施療紹介等を主なる事業として現に十数名の被護者あり山梨慈善保護会は私設にして去る三十八年の創建にかかり其目的は専ら出獄人を保護して自活の途(みち)を周旋し以て正業に就かしむるにあるが開始以来茲に七年保護の目的を達したるもの百四十余人にして成績頗る良好、司法省は基金四千円を交わして事業を督励し有志又多少の寄付をなして之を補助す又静岡市に本部を有する社団法人救護会甲信支部なるものありて専ら廃物の喜捨を乞うて之を処分し其買得金を以て各般の救護事業を為す趣(おもむき)なるも其内部には頗る怪しむべきものあり又仏教家の手に成る山梨小教区救護会なるもの四十年八月より起り天災地変に因る罹災者の救護及び横死者の追弔法会に従えり
市の交通事業に関する施設は遠く明治六年に発布せられたる道幅制限法の県令に基因し爾来路幅の拡張路面の修理等着々改良を加えつつある中(うち)にも中央線開通の後(のち)市勢頓(とみ)に発展を加えて交通運輸又頻繁を呈し来りたるを以て甲府停車場を中心として市内の幹線と目すべき場所の改修を先にし又街路の幅員屈折あるものは之を整正して往来の不便を除去しつつあり家屋制限は四十年二月の大火後発布したるものにして屋根は必らず瓦又は鉛板等を用ゆべく之を励行するが故に幸にして現今は藁茅等の旧態を存せざるに至れり又煙草歯磨売薬等の広告場処の如何を問わず建設せらるるの傾向ありしが近時当局に於ても其殺風景を悟りたりけん之に制限を加うる事となりて意匠又は色彩等市の美観を添うるものの外は一切之を撤去せしむるの方針を採れり又市内の馬車鉄道は故(こ)雨宮敬次郎、小野金六両氏の共有にかかり市を中心として東は石和、南は鰍沢に及ぶものなるが其設備甚だ不完全にして所謂ガタ馬車を距(で)ること遠からず又市内の人車数は約八百台あり大部分は護謨輪(ごむわ)に改められて縦横に駛走する所是れ又見遁すべからざる交通機関の一たり
市の勧業行政は農業に於ては市農会に経費を補助して各種の改良刷新を奨励し又副業として養蚕飼育をなさしめ種類の選択飼育の方法等を研究すること並に社寺学校堤塘等に欅苗数千本を植付けて之を風致防風の用に供すること等あり又商工業の助長方法としては市は経費を補助して当業者に品評会開設を奨励し審査を厳密にして相互の競走心を旺盛ならしむ又去四十一年甲府商業会議所の開設以来其斡旋に由り傭人の奨励、供給地の調査需用者の状態等の調査に着手し一般商業の発展を図りつつあり又電力供給及び電灯事業としては
資本金四十万円の甲府電力株式会社あり市内各工場の使用動力六十三個、馬力百三十四半にして点灯戸数三千二百二十七戸此光力十二万五千六百六十四燭光に当る此社は事業拡張の為め今や発電所の増設工事中なるに加え瓦斯(がす)供給の為め別に資本金三十万円の甲府瓦斯株式会社なるもの新設せられ本年中竣成の見込を以て今や盛に工事中に属せり但し商工業助長の方法に於て未だ物産陳列館の設置なきは甚だ遺憾とする所なり
市の財政状態を明(あきらか)にせんが為め四十三年度歳入出決算を表示すれば左の如し

(歳入出の表。省略)

水道公債は七十八万八千円にして昨四十三年四月勧業銀行より借入れ向う二箇年据置き四十五年より六十二年に至る十八箇年間を以て償却完了の予定たり而して其財源は一般歳入の補充金及び工事竣成後に於て国庫所費の補助金並に給水料の収入より水道維持費を控除したる残額を以てするものなり又短期公債一万四千三百三十五円は教育費に充当する為め四十三年六月起債したるものなるも本年已に償還を了せり又市役所改築基金として三万余円を蓄積したるものあり五万円に達するを待ちて工事に着手する筈たり
終(おわり)に臨んで市の概観を付記せんに甲府は甲斐の中央に位し荒川を西南に帯び濁川を東北に流し地勢北に高くして市街の海抜二百八十六米五(めいとる)、広袤は東西一里二丁南北一里六丁戸数一万百五十四戸人口五万二千二百一人東京を距(で)る三十六里峡中第一の都会たり岡本黄石翁詩あり
乾坤戦伐憶当年、地勢方知割拠便、
一水西南環絶境、独峰東北逼中天、
風声夜驚鼓声震、雲影暁疑旗影懸、
蓋世英雄縦可弔、蕭々古典鎖寒烟、
(完、次は水戸市)

(原文は旧字旧かな。新字新かなに改める。[]は、判読困難或いは不能な箇所を筆者が推測で補ったもの。「□」は、判読不能の字。)

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