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日本の都市(五)~(七)福島市

日本の都市(五)~(七)(「東京時事新報」明治44年(1911)12月19日-21日)

日本の都市(五)
福島市(一)

福島市は県の東北信夫(しのぶ)郡の中部に在り宇都宮より白河を経(へ)阿武隈川の流域に沿って以て仙台に達する奥羽街道の要衝にして鉄路は遠く帝京より青森に通ずる東北線なるもの此地を経由し米沢山形秋田を経て等しく青森に及ぶ奥羽線なるもの亦(また)此の地より分岐す福島と云える名称基因に就ては永禄中(ちゅう)伊達氏杉妻の辺に築城して福島城と名づけたるが為めなりと云い又天正中蒲生氏の領有に帰して後旧名杉の目を福島と改めたるものなりと云い又市の北方に横わる信夫山の旧名は福島山なりと為す者あり暫く見る人の判定に委(い)す
然れども此地が古(いにしえ)の信夫(しのぶ)の里と称する著名の一地区にして彼の西行法師の[「]あづま路の信夫の里にやすらい名こその関を越えぞわづろう」*と詠み又源頼義が「あづま路のささやきの橋中(なか)たえて文(ふみ)だに今はかよわざりけり」と口ずさみたるは恐らくは此付近なるべく市内の古刹杉妻寺は古来密語橋畔に在りしものを再遷して以て信夫山下に建つに至りしと云える事歴に徴せば頼義の歌意又首肯するに難(かた)からざる可(べ)し城地は伊達氏の後ち屡次(しばしば)其主公(しゅこう)を替えたるも元禄十五年板倉氏入部封三万石を食みて王政維新に至る
信夫山は市の北方に在り中腹一円を拓きて以て市民行楽の地に充て之を信夫公園と云う広袤(こうぼう)数千歩園内は古杉老松積翠満(したた)らんとして泉石其間に粧点し梅桜桃李数千百株の間茶店酒房参差たり花時の清月下の冷四時共に佳ならざる無し試に南面の一角に立ちて瞰望(かんぼう)すれば福島全市を一眸(いちぼう)の下(もと)に収め前方を遶(めぐ)れる阿武隈川の清流と対岸に屹立せる弁天山の風光とは恰(あた)かも一幅の画幅を見るが如く東奥(とうおう)屈指の眺望たり
藩記に拠るに元禄十六年板倉氏入部の時は城下の庶民僅かに四千三百人にして寺院十箇処あり毎月十二回の市を立て紙木綿(もめん)絹紬(つむぎ)等を売買したりと而して明治維新の初めに於ても人口尚お一万に満たず単に仙道の一府邑(ふゆう)たるに止りしが如きも去(さる)二十二年四月町村制実施の後ち屡次(るじ)付近の村落を併合し四十四年一月更に市制を施行して漸く商工業の発展するに及□今は市の広袤東西十八丁南北二十九町□□□□四町余を包容して戸数千七百五□人口三万三千七百六十を算するに逢う
此の如く市勢の発展注目に値するもの養蚕製糸等特種産業の進歩に基くこと勿論なるべしと雖(いえど)も抑(そもそ)も亦(また)地が奥羽の咽喉に当り各種交通機関の利用収めて其手中に在るが如き形勝を占めるもの多大の寄与を為さずんばあらず即ち交通機関を見るに前記宇都宮より仙台に通ずる奥羽街道の外(ほか)米沢、山形に達する街路は市内万世町より別にて西北に走り更に東船場町より小国村に出づる中村街道あり鉄路は東北、奥羽両線は勿論大日本軌道会社の軽便鉄路の福島駅前より伊達郡長岡村に到りて東西に別れ西は飯坂温泉場に東は保原を経て梁川に通ずるあり市内の道路又概ね修理の方法に適いて粗悪ならず各種の交通機関を包有利用することの便宜ある恐らくは奥羽中(ちゅう)其比なかるべしと思わる

[筆者注]
* あずま路や しのぶのさとに やすらいて なこその関を こえぞわずらう


日本の都市(六)
福島市(二)

市の教育事業を見るに普通教育には第一尋常、第二尋常高等、第三尋常、第四尋常の四校あり福島町時代に在りては今の第二尋常高等の一校を有するのみに止まりしが学齢児童の増加に連れて第一尋常を是より分離し又た曾て浜辺村を併合したる三十七年に於て同村々立にかかるものを第三尋常と命名し又四十三年四月字曽根田に一校を創建して之を第四尋常と云う右の外(ほか)第一高等なるものありしが県立師範学校に於て附属小学校拡張の企(くわだて)あるに会し本年四月生徒並に教員を挙げて校舎諸共(もろとも)師範校に貸与するに及びたれば今は市と相関せざるに至れり児童の就学歩合は九九、四一に居る
特業教育に在りては大字腰の浜に市立商業学校あり中学程度にして普通科三年と講習科一年とを課し在学生百名内外成績頗る佳良にして卒業生の需用殊に多く現に昨年度の如き二十名の卒業者に対し八十名の招聘申込者ある盛況を呈せりと云う又実業補習学校ありて農家の子弟の為に専ら農業本位の智術を授け商業補習学校ありて是亦(これまた)商家の子弟を集めて算術簿記等を教ゆること自余の諸都市に異ならず又第二尋高校長の園長を兼務する幼稚園及び保嬰学校あり保嬰学校とは義務教育修了者にして尚修学の希望ある者を収容する処にして修業年限五箇年なり
右の外杉妻町には私立福島訓育学校あり上町には福島裁縫学校あり万世町には修成女学校あり宮町には大成塾あり上町には学半塾あり杉妻町には徒弟夜学会あり何れも校名の表示するが如き目的の為めに設立経営せらるるものなるが唯学半塾は師範学校教諭小田行蔵氏の設立する所にして師範入学志望者に予備教育を授け併せて准教員養成を司りつつあり又福島県教育会の支部たる市教育部会ありて会員二百四十人を有し市長二宮哲三氏部会長とし教育問題の討究調査機関たるの任務を尽せり又市立図書館は字腰の浜に在り三十七年戦役紀念として開設したるものにして和漢書一万三千百五十余冊、洋籍二百十余冊を収む前年度の開館日数三百二十九日閲覧人員八千四百二十三人なり
転じて風紀事業に入(い)るに劇場には字置賜町に福島座、宮町に新開座あるも其規模至って狭小、穡壁*は破るるに任せ内容又修理を加えざるが故に不潔なること言語に絶す時に或は一流優人の登場すること無きに非ざるも市民の演芸に関する趣味の極めて低度にして之を以て風紀或は娯楽の機関となすの抱負なきが故に興行界の不振なること真(しん)に想像の外(ほか)に在り随って音楽堂、寄席、花卉栽培等の設備又見るべきものなく偶々(たまたま)盆栽草花等の売買なきに非ざるも所謂縁日商人の行事にして都市行政等と交渉を有すること絶て是なし
市の救済事業には福島育児院あり曾て鳳鳴会なるもの起りて孤児貧児を収容教養したる事ありしが半途転じて今の育児院となる清明町常光寺内にあり常光寺は福島唯一の大伽藍にして堂宇極めて荘麗、住職玉木隣祥師は即ち育児院々長にして現に収容する処の子女七十余人毎年の経費三千円内外にして県市共に四百余円を補助す又別に慈善授産場あり菅藤留吉氏の経営にかかりて老者廃疾等自活する能わざる者に極めて下級の小労働を課し以て衣食を得せしむるの方法を採る昨年内務省は其事業を嘉賞して金二百円を下賜したり

[筆者注]
*「牆壁」の誤植か。


日本の都市(七)
福島市(三)

市の衛生事業中信夫山公園の設備に就ては已に述べたり今進みて上下水道を見るに上水道は市外清水村なる柳清水より引用する旧式水管ありて陶樋を敷設す管の延長六千三百八十七間、水質純良且つ豊富にして数百年来曾て沽渇せしことなく専門家の調査に由るに優に十万人の需用を支え得べしと云う此他自(たじ)用井(ようせい)三百内外共用井百余箇処ありて先(まず)は格段の不便を危険とを感ぜざるが如しと雖も転じて下水の方面を眺めれば転(うた)た寒心に耐えざるものあり即ち市内の目抜きたる本町、栄町、大町等は路幅広く往来又頻繁なるが故に不完全ながらも多少排水の設備あり然るに新町、宮町等一度足を裏通に入るるときは各戸の厨房より排出する汚穢の液汁は遠慮なく路傍に流出氾濫して其不潔目も当てられず又多少の設備ある本町大町と雖も汚穢物は町内を流るる下水堀に浮沈流下するを以て市内の自用井共用井なるものは恐らくは各戸排出の下水の変体たるべき奇観あらん市当局も茲に盧る処ありて本年度予算に汚水路調査費を計上し如何にせば完全なる排出を為し得べきかに就き研究しつつあり成果を得ば幾分の面目を改むなるべし
市場は総て私設にして市と相関せざるか家畜、絹織物、青物の三市場あり家畜絹織物共に特種の産物として顧客遠近より集合し青物は唯市内の需用を充たすに止る避病院、火葬場は共に市の直営にして前者は流行病の発生に際し随時に之を開設する制度にかかり後者は私人の補佐に由り一定の料金を徴して其依頼に応ず尤も埋葬場に就ては墓地の地域に制限を置き妄りに広汎なる使用を許さざるの規定あり此外衛生事業の一として去四十一年春、奥羽六県物産品評会の当市に開かれたるを好機とし県事業として大日本私立衛生会福島支会を起したる事あるも其後の状勢微々として振わず遂に市の経営に帰し市衛生会として衛生組合事業の補助、種痘並に演説講話等を試みつつあるが是又盛況を見る能わざるを憾(うら)む
本月十一日福島県の経営にかかる物産陳列館竣工して盛大なる開館式を挙行し又株式組織の瓦斯(がす)会社起りて目下頻りに其工事中なるが何れも市の事業と見る能わざれば之を略し市の勧業行政として指摘すべきものは農事奨励、坪刈及び農[蚕]業視察、品評会、野鼠駆除、原種田、蔬菜試験所、稲選種競進会等の鼓吹指導に当る市農会あり又第二十七議会を通過したる原蚕種製造所も近く市内に新設せらるる筈なるが故に市は其建設敷地並に附属桑園を寄付するに決したり是(ここ)に勧業行政の一端を見る可し
市の歳出入額は経常臨時を合し本年度予算七万六千二百八十六円九十三銭にして別に四万九百円の市債あり今歳出入の重なるものを表示するに左の如し

(歳出入の表。省略)

右の外(ほか)歳出臨時部に於て土木費千二百九十余円、悪水路調査費七百五十円、補助費千百十円、勧業費千五百円、雑支出千六百円等あり市債四万九百円の中(うち)一万八千九百円は小学校建設の旧債に残し二万二千円は前記原蚕種製造所の新設に当り敷地桑園三町歩余を政府に寄付せんが為め起したるものにして償還期限は来る四十七年五月たり
県下信夫伊達の両郡を中心として付近各郡より産出し幾万生産の手に依て製造せられたる折返糸なるものは九貫目を一梱として其数実に一万以上を海外に輸出し所謂掛用糸と称して名声籍甚たるものが市内には之が共同荷(ママ)(にづくり)を司る共同生糸荷造所なるものあり品等を六級に区分し同荷造所の商標を付したるものは現品を見るも已(すで)に多大の信用あり我邦の生糸産地多数なりと雖も斯の如き新組織を有して生糸貿易に寄与する事の多きは独り此荷造所を以て嚆矢となす宮城県に於て僅に類似のもの一箇処を有するも其規模狭小にして信用薄く海外に輸出する生糸は同所の産と雖も必らず此荷造所を経由するを常とす市の事業に属せざるも本市独特のものたれば付記す
市の高級吏員とし云えば概ね老輩にして官吏上り議員上り等なるに拘わらず福島市長二宮哲三氏は明治三年同地に生れて二十六年独逸協会学校の業を卒へ一年志願兵として近衛第一連隊に入り見習士官となり第三連隊に転じて歩兵少尉に陞任除隊の後第五高等学校講師となり三十七年日露戦役に際し中尉に任じて出征翌年春負傷後送の後捕虜収容所長たりし事あり同年夏大尉に進み中隊長に補せられたるも戦(たたかい)止みて除隊再び第五高等校の講師に復し四十年三月福島中学校長に転ず同年七月始めに市制の施行せらるるに当り衆望に由り市長に当選就職今日に至る年四十二、市長已に異彩あり助役鈴木精氏も亦常人と異なり十九年福島新聞社に入りて編輯に従事し励精二十年、三十九年春福島町助役に挙られ四十年市制実施の際市長事務取扱と為り次で市助役に選ばる殆ど市の活辞書(かつじしょ)たり(完、次は青森市)

(原文は旧字旧かな。新字新かなに改める。[]は、判読困難或いは不能な箇所を筆者が推測で補ったもの。「□」は、判読不能の字。)

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