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日本の都市(十六)~(二十一)名古屋市

日本の都市(十六)~(二十一)(「東京時事新報」明治44年(1911)12月31日-明治45年1月5日)

日本の都市(十六)
名古屋市(一)

尾張の南部に位し地勢平坦にして街衢井然(せいぜん)、西東北は愛知郡及び西春日井郡に接し南は伊勢湾に臨む東海道の大都会なり古書には那古屋又は那古野に作り広井押切の東にして古井の西なる一帯の原野を指称したるが如く則ち今の名古屋城廓の辺(ほとり)は基本拠ならんか築城開市の後も尚お那古屋の村名を郊外に遺し今も亦広井を那古野村と称せり金鯱(きんこ)を以て有名なる名古屋城は市街を前にして西春日井郡の田野に連り面積方(ほう)十町に近く西に堀川を帯び濠塁の築造ありて以て諸廓を区処(くしょ)す慶長十五年幕府西国の大名二十家に課して之を造らしめ其天守閣は加藤清正の建築する所なりと云う竣成の後ち藩祖源敬公入部、御三家の尊長として勢威飛ぶ鳥も落さんず赫々のものありしことは今更絮説する迄もからる可(べ)し
名古屋の始めて自治制を施行したるは去(さる)明治二十一年のことなるが翌二十二年の東海道線全通と相俟て市の発展進歩に寄与したること頗る多大なるものありしが如し則ち此鉄道の開通に伴い西部郊外なる笹嶋に名古屋停車場の設立せらるるや旧来の広小路は東南久屋町より西下長者町に至り夫(それ)より以西は世俗堀切と呼ぶ一条の溝渠に沿いて狭隘なる道路たりしを以て之を改修して名実相伴う大道路となし以て一直線に名古屋停車場に到達せしむ是れ市街の西部発展の素因を為せるものにして次で関西鉄道開通し東海道線と連絡の為め愛知停車場の設置を見るに及び茲(ここ)に笹嶋より枇杷嶋町に通ずる道路の大開修を行のう等付近一帯の状勢頓(とみ)に殷賑を加え来れり
斯くて日清戦役の勃発せるより戦時中の名古屋は第三師団の所在地として其出征補充等所謂剱光蹄音全市を掩いて又商工業を談ずるの遑(いとま)なかりしも戦役終了と共に各種の銀行会社頻々創設せらるる中(うち)にも明治三十一年には名古屋停車場よ□栄町(旧広小路)の大道路上に電気鉄道の敷設せらるるあり次で西柳町より押切町に至る新道路を開鑿して是又電車線路となり同三十三年東濃の多治見に到る中央線の一部開通するに至りて市の東部千種町には千種停車場の設置を見たり而して名古屋千種両東西停車場の連絡を完全ならしめんが為めには南久屋町所在の愛県(ママ)(あいち)庁舎を何れにか移転せざれば其目的を達する能わざるより県市熟譲の末県庁舎は遂に新栄町に新築移転するに決し茲に喜久屋町以東の道路改修せられて東西両停車場の連絡成り電車又た其間(あいだ)を駛走して交通の便増大し東海道線より木曽路に入る足一歩も地を踏むを要ぜざるに至れり
降って日露の大戦役あり一時は全く軍事的市府と変じたること十年前日清役当時の如くなりしに講和の成立と共に事業熱の勃興前(ぜん)に比なく各種産業の発達に伴のう市民の増加駸々として止む処を知らず真(しん)に全国稀観の観を呈するに及べり随って地域の拡張を促すは自然の勢(いきおい)にして明治四十年六月には熱田町の全部を同年七月には小碓村の内字熱田新田東組、千年熱田前新田、稲永新田等を編入し又幾多の星霜を鉅銭の資金とを投じ県当局の極力経営したる熱田築港をも遂に市域に包有して名古屋港と称し明治四十年十一月には頗る盛大なる開港式を挙行するに至れり而して又明治四十一年四月には市街の拡大膨脹の結果として市を東西南北の四区に分画して各区役所を置き翌四十二年十月には御器所村千種町の一部を市内に編入したり
東西両停車場を連絡する幹線道路に就ては曩(さ)きに之を云えり則ち四十一年中より同幹線南大津町より南北幹線たる熱田伝馬町に達する大道路を開通したるに加えて舞鶴公園の新設、精進川の開鑿、上下水道の布設等凡そ市勢の発展に適応するの設備にして之れを試みざるもの無く更に四十三年三月に至りては第十回関西府県連合共進会を主催するに際し新に二条の大道路を改修したる外(ほか)南北幹線の熱田停車場より分岐して更に名古屋港に達するもの若くは西柳町より押切町に到る電車線路の終点より分岐して枇杷嶋町に達する両線路を改修し何れも電気鉄道を敷設したり而して本年五月一日には多年名古屋市民が翹望期待したる中央鉄道全線の開通したると共に更に名古屋駅より名古屋埠頭に到る臨港鉄道の竣成を見て又一新生面を開けり
右と相前後して東西幹線の西柳町より南進して熱田新田東組に達する大道路成り既に一部に電車開通して洲崎橋畔に達し又堀川岸を起点としたる電車は第三師団兵営前より城濠内を土居下町に出で杉村を経て中央線大曽根停車場まで開通して市内の交通機関益々備わる又曩(さき)に市内に編入せられたる築港埋立地は東築地と称し是等地域と熱田市街との交通は電車の設備に依り其利便を得て海陸交通愈々完整の域に近し則ち地は帝国本土の要枢に位して気候温和土地膏腴、濃尾の平原と木曽の流域とを睥睨する此新進の大市街の前途や真に春海の如しと云うべし
試みに数字を藉(か)りて市勢発展の跡を尋ねんか其面積戸数人口の拡大膨脹実に左の如きものあり

(明治21年~43年までの名古屋市の面積・戸数・人口の表。省略。)

二十三年前に在っては戸数四千六百、人口十五万の市街にして今日は戸数八万九千七百、人口四十万の上に出ず之をしも膨脹発展と云わずして何をか膨脹発展と称するを得べけん現下の市街は東西二里八町[南]北三里七町周囲実に十二里十町余街衢の数三百二十余に上る随て市財政も著大の増額を来し去三十三年度に於て歳入六十三万三千余円歳出五十四万三千百余円なりしもの昨年度に至りては歳入出百七十九万九千五百余円に出でて其増率三倍に達せんとす市民の自ら中京の称呼を立つるもの決して偶然に非ずと云うべし


日本の都市(十七)
名古屋市(二)

市の交通事業中、一般道路改修工事に関する問題は前項自治制実施後に於ける名古屋市発展の概観に於て之を尽したるを以て省き茲には路面整理、家屋広告制限、電車経営、巡航事業等専ら市の交通行政に属する大体の調査を為すこととすべし則ち道路植樹は街衢の美観並に衛生上よりして夙(つと)に其必要を認めつつあり去れば栄町新栄町等路幅広大の場処に於ては人車道の境界に於て柳樹を栽植し又西柳町花園町の如き路幅の人車道を区分する能わざる場処に在りては何等の区分なく適当の位置に柳桜其他の雑木を栽植する事としたるも現在の道路は幅員一般に狭隘なるを以て之に対し到底完全の施設を為すは望んで得ざるものあるが如し又市街の異常なる発展に伴い衛生上防火上家屋建築制限の必要を認め已に県当局より市に諮問する所あり着々調査中の由なれば近く何等かの法規を見るべく又広告制限も風致上決して等閑に付すべからざる問題なるを以て現在の道路取締規則以外適当なる法令発布せらるるに至るべしと思わる
都市の電車市営は輓近内外大都会の採用し来れる政策なるが名古屋市に於ては其必要を認めながらも各般の事情ありて未だ之を断行するの時機に達せず私人経営の名古屋電気鉄道会社、瀬戸電気鉄道会社、熱田電気鉄道会社等に委ねたり其鉄路敷設区域は名古屋電気の分最も広大にして市の内外に亘り延長十八哩(まいる)余(よ)複線式たり瀬戸電鉄は大曽根堀川間二哩七十九*鎖(ちぇん)中(ちゅう)上園町、大曽根間に於て現に運転を開始し又熱田電鉄は東築地、明治新田間一哩四十鎖を運転するに止まる何れも単線式なり而して尚将来に於ては名古屋電鉄の計画にかかる外堀町辰巳町線外(ほか)十六線あり又愛知電鉄会社なるもの起りて以上の外(ほか)数条の新線路を目論見つつあるも未だ特許命令に接せざるを以て事実として見ることを得ず
市の港湾としては愛知県の極力経営したる旧熱田港則ち今は名古屋港あり市は其築港費額の一部を負担して百般の施設は悉く之を県当局に委せり市内は元来□川に乏しく舟楫の便は唯一西部を流るる堀川のみに過るを以て更に東部に運河を開鑿し両々相対して百貨の運搬に資し堀川の如き日夕幾百隻の船舶は貨物を満載して櫓声*咿軋、市内交通機関の不足を補いて以て商工業の発展を助長す然れども悉く貨物の運搬にして人物の輸送に及ばざるが故に随(しがたっ)て一般巡航事業としては何等(なんら)特記すべきもの是なきが如し又総じて道路改良に就ては市当局者は夙(つと)に其急務なるを認識し曩(さき)に市役所内に市区改正調査会なるものを組織して市区の営業交通衛生防火等永久の利便を図るの目的を以て官公吏名誉職員並に学識経験ある人士に其委員を嘱託し目下次第に各般の調査を進めつつあり
名古屋市は由来美人の産地を以て高名なると同時に糸竹管絃の技(ぎ)異常の発達を遂げて苟(いやしく)も女子とし云えば歌舞音曲生花茶事其一班を心得ざる者なきの有様にあり此慣習が土地の風紀上に如何なる影響を及ぼしたるかは暫く別問題として市民の好尚需用に適応すべく劇場寄席等の数頗る多きは又必然の結果と云べし即ち劇場には御園座、末広座を筆頭として新守、千歳歌舞伎、明治、宝生、音羽、京枡、朝日、高砂の各座あり単純なる演芸場としては日出館、寄席としては富本金輝、春日、米本外(ほか)二十余に及ぶ其光景極めて盛大なるが如きも真に経世上の見地よりする風紀事業なるもの一も計画せらるる事なく舞鶴公園中に音楽堂を建設したるは可なるも公園全体の設備未だ完整せざる為め之が開奏の運びに至らざるは遺憾なり四季の行楽地に就ても唯(ただ)一の舞鶴公園を除くの外は劇場寄席等に於て往々花卉草木を陳列し名古屋一流の舞曲歌楽を点綴して極めて俗悪なる人気に投ずるの慣行を維持するに止まる堂々たる大市街として市民の徳性涵養に資すべき何等の用意なきは名古屋の為めに惜みても余りある次第と云うべし

[筆者注]
*鎖 チェーン(chain)。ヤード・ポンド法の長さの単位。66フィート。約20メートル.
*咿軋(いあつ)舟をこぐ音。


日本の都市(十八)
名古屋市(三)

市の上水道敷設に関する計画は去る明治三十六年中、下水改良の目的を以て其調査に着手したるを起源とし爾来幾多の沿革を経て三十九年に至り実施に関する成案大成し上水道工事を四十年度より四十四年度に至る五箇年に、又下水工事を同じく四十年度より四十九年度に至る十箇年間に継続施行することと為り茲に此大計画の実行を見るに及べり当時主務省の認可を得たる予算総額は上水道費六百万九千五百円、下水道費二百三十六万八千八百八十八円にして此内財源の一部なる借入金諸費を控除すれば実際の敷設費予算なるもの上水に於て四百七十五万五千円、下水に於て百七十一万九千円たり
斯くて四十一年二月内務大臣より敷設認可の指令に接したるを以て直に実施に著手し調査したる結果、従来の予定設計に於ては上水道送水線路を給水人口六十万人と同く配水工事を四十六万人と仮定設備したる所、市勢発展の状勢に鑑み斯くては聊(いささ)か小規模に失するの傾(かたむき)あるより送水線中の隧道暗渠及び開渠は人口百万人を標準として給水設備をなすことに拡張し為めに工事年度に於て一箇年費額に於て五十三万円を増加するの余儀なきに至れり又下水道に於ても其方法を改めて混水法即ち合流法を採りたる為め経費八十一万円を追増したり而して此敷設費中には新に市に編入せられたる熱田町及小碓村に対する設計を包含せざるが故に其後に至り更に是等新編入地にも両水道工事を拡張するの必要を認め為めに上水道に於て五十三万円下水道に於て六十二万円を増加計上し其成功年度を更に各一箇年延長したり再度の変更拡張に由る全費額を合算するときは上水道費五百七十一万五千円下水道費三百十五万円にして前者は四十六年、後者は五十年に至りて全部竣工の予定となるなり
両水道敷設費の資源は国庫補助及び市債を主なるものとし国庫補助は半途設計変更に基く拡張費を除きたる敷設費に対し上水道百十七万円、下水道五十六万六千円を去四十年度より十二箇年間に分割交付せらるるものにして拡張増額に対する補助は目下主務省へ稟請中に属せり而して市債は興業銀行の手に依り英国に於て募集したる名古屋市事業公債なるもの即ち是にして其額八十三万磅(ぽんど)内には水道敷設費の外(ほか)公園建設費、精進川改修費商工陳列館新設費等を含み残余は従来の市債償却に充つるものたり償却方法は市税を主として精進川河岸地並に公園貸地収入等より来る明治五十年より同七十六年に至る期間に於て抽籤又は其他の方法に基き順次支払いを終るの定めたり
且水道の水源は則ち木曽川の本流にして市を距る七里、丹羽郡犬山町旧犬山城櫓下の同川左岸に分水取入口を設け此処を起点として隧道二百六十間、暗渠四百十七間、開渠八千百六十七間を通じて東春日井郡鳥居松村なる沈澱池に到るべく此沈澱池より愛知郡東山村の濾過地に来る四千六百間の間(あいだ)は内径三十六吋(いんち)の鉄管を布設し同処に於て[濾]過したる浄水は更に喞筒(ぽんぷ)を以て五百四十間を隔りたる同村内の配水池に揚げ是れより内径四十二吋の鉄管を以て市内に送水するものにして沿線四郡十五箇町村に亘るの大工事なり転じて下水道の設計を見るに最初の計画に於ては雨水は多く在来の溝渠に放流し汚水のみを新設の下水管に排除する方法を採りしが更に調査の末雨水汚水共に同一管に由り放流する計画に変更し下水道は土管、鉄筋モルタル管、鉄筋ブロックコンクリート管、鉄筋マレクリート管等を大小に応じ適宜に併用し又場処により開渠をも設くべく其処分方法は河海放流、土壌灌漑、濾過清浄、化学的沈澱等種々攻究する所ありしも何れも莫大なる設備費を要して刻下の財政状態の到底耐え得べき所に非ざるを以て暫く市内の二大溝渠たる堀川及び精進川に排出する事とし排水口には自動閉鎖器を設けて逆流を防止する計画たり此工事面積四百八十一万余坪、延長十四万八千三百九十七間に達す
右の設計に基く工事の現況を見るに上水道に於ては取入口及び隧道工事は第三水門の竪坑と通路隧道の全部及び送水路隧道百十五間の開鑿を竣(お)え第二水門の位置に当れる岩石切取工事も亦殆ど之を終り目下隧道の築造に進みつつあり亦暗渠は上部掘鑿を終りて已に幾分コンクリート工を進め開渠は全部盛土及び切取工事中にして之が張立(はりたて)に用ゆべきブロックは製作高十銭を超え遠からず全数造出を見るべし又沈澱池の総数三箇は悉く土工を[終]り不日コンクリート工に□手すべく延長四千六百間の送水鉄管線路は略ぼ土工の竣成を告げ其中間に於ける隧道及び矢田川伏越工事は昨年末を以て庄池川伏越工事は本年末を以て全部鉄管の敷設を終らん又濾過池は総数八箇の内四箇の掘鑿を竣り現今は残り四箇の土工中に属し配水池は二箇の内一箇は已に周壁及び池底のコンクリート工を終り導流壁施工中にして(ママ)(いけ)の一箇も亦池底のコンクリート工に着手したり又配水鉄管の布設は便宜上市内を十八区に分ちたるが今や第一区を終りて引続き第二区工事に進めり翻って下水道を見るに実施設計の認可後日尚お浅きを以て未だ顕著なる工程に達せざるも寺町幹線、堀線、鶴亀橋線、記念橋線山王橋線、納屋橋線、鶯谷線等に於て通計約千三百間の下水管布設を竣り着々予定の工事を進めつつあり以上を名古屋市水道の計画並に現況の概観となす


日本の都市(十九)
名古屋市(四)

名古屋市には従来完全なる公衆共楽の機関なきを以て市は切に其必要を認めて明治三十九年十二月公園設置及び敷地買収費十六万三千五百余円を市会に付議し其承認を経て四十年一月公園設立の件を愛知県知事に申請し同年八月認可の指令に接して敷地買収及び地上物件の移転等を行い次で四十一年に至り更に公園設備費十万円を市会に付議可決したるを以て直ちに事業に着手し精進川改修堀鑿工事より生ずる土砂を運搬して以て埋立を完成したり
新公園の位置は愛知郡御器所村(現今市に編入)地内にして北は立郡千種町の境に起り西は中央鉄道線路に沿いて南し同線路踏切の西南より村内を横ぎり市より通ずる里道に沿いて東南に向い呼続町字川崎を繞(めぐ)りて北し名古屋高等工業学校に沿い千種町に到るものにして此面積九万六千五百余坪、而して一昨年の連合共進会々場に使用したるを好機として先ず其入口に二箇の架道橋を設け園内に通ずる幅員十間の大道路之を画し日本式庭園は丘陵を築き歩道を通じ池沼を穿ち小橋を架し幾条の渓流を繞らし樹木岩石を点綴して以て風致を添え西洋式庭園は樹木草野の配合に由りて地方田舎の観を為さしめ運動場を設け園内東南方の高地には室町時代を写したる二層建の紀念館及び付属物を建築し連合共進会閉会後に於ては元帝室林野管理局名古屋支庁の経営にかかる出品陳列館及び付属建物の払下其他同会場内に建設したる諸種の風致的建物の譲与を受くる等将来市民の為めに永久的娯楽場を設置せん目的を以て其設計は駒場農科大学の本多静六博士名古屋高等工業の鈴木禎次教授専ら担当し今や諸般の施設進行中に属せり
各種の市場に就ては未だ市の経営に属するものなきも輓近市勢の発展に伴いて戸口増殖し随て日用品たる魚鳥蔬菜等需用の激増すると共に市価頗る昇騰し中流以下市民の生活に影響する所少からざるのみならず時には需用を充たす能わざる状況を呈しつつあるを以て市内の有志者相謀り資本金三十万円を以て西区西柳町に中央市場株式会社なるものを組織し其事業として魚鳥、獣肉、乾塩魚、乾物、果物、蔬菜、鶏卵、缶詰等各種食料品の委託販売及び競売買並に付属建物の設備賃貸を為す目的を以て一昨四十三年五月より開始し漸次事業の発展を見ると共に今や鮮魚、塩乾物及び果実類の直営にも従事し一般市民の要望を充たしつつあり此他南区熱田町には旧藩時代より連続せる個人経営の魚鳥市場ありて其経営の盛大なる最近年度内の販売高百四十三万千五百余円に達し販路は近県下を始め交通機関の完備につれ長野、滋賀、京都岐阜の各府県にまで拡大輸出するに到れり
市場はまだ市経営の時代に達せざること前述の如しと雖も屠場は一般衛生の必要により四十三年五月より市営屠場を開設したるに漸次設備の完了するに従い事業の好果を収めんとするが如し開設前年に於ける市内の屠畜頭数は牛二千四十五頭、馬六百二十九頭、犢(こうし)五頭、豚三百三十五頭にして年を逐(お)いて増加するの一方にあり又埋葬場に就ては共同墓地設置の必要を認めて市会は予算金十万円を議決し今や位置選定中に属せるが旧臘中未だ決定に至らざりき
然らば社会的救済の事業は如何(いかん)市は年々財団法人たる愛知育児院及び名古屋養老院に対し相当の補助金を交付しつつ其事業の扶掖助長に努めり而して愛知育児院の如き創立日久しく基礎漸く確立して明治四十三年度末の現有財産三万七百四十余円、収容児童数百〇九人、同年度の支出経費六千四百八十余円に達せり院児育成は一般家庭に傚(なら)いたる家族舎を建造して全くの独立の一家庭となし一家庭の収容児十名乃至十二名を限度として之に各一名の媬姆助手等を置き日夜院児と起臥寝食を共にして飲食衣服礼儀等細大漏さず訓育養成の事に当れり又乳児は委託制に由り慈愛深き家庭に相当保育料を支出して之を委託し時々其状況を視察監督しることと為せり去れば其成績頗る良好にして年々内務省より多額の金員を補助せられつつあり而し未だ職業紹介、無料宿泊、小児預所、公立質屋等輓近発達し来りたる最新制度の之に伴わざるは残懐の至りなり


日本の都市(二十)
名古屋市(五)

市の教育事業は之を風紀救済等の諸設備に比して遥に進歩の績あるが如し即ち先ず普通教育の方面より見るに小学校は尋常四十七校(学級数六百六十九、児童数三万六千九百五人)高等四校(学級数五十、児童数二千三百九十九人)にして其経費は大阪に見る各区独立せるものに非ず全市共通なるを以て外観内容共に著しき等差を認めず殆ど均等の状勢を以て統一発展しつつあり又戸口の増加と義務教育年限の延長とは従来の校舎にては狭隘を感ずること殊に甚しきものあるが故に市は一昨四十三年度に於て公債八十七万円を起し児童収容に必要なる普通教室三百十五の建築工事に着手し目下進捗の途上にあり而して此工事は本年度内に竣成の予定たり
女子教育機関は市立高等女学校二、県立一、私立一計四校あり何れも時代の要求に適応すべく良妻賢母の養成に鋭意しつつあるが中にも市営にかかる二校の如きは近代物質文明の進歩に伴い諸般風俗の兎角に浮華驕奢に流れ延(ひい)て繊弱なる女性の虚栄心を括発*し為めに家庭の健全を傷うこと尠少ならざる傾向あるを以て特に意を此点に用いて質素勤倹柔和貞操等諸徳の涵養に努力しつつ既に多数の卒業生を出して成績頗る良好なり又幼児教育の為なる幼稚園は市設のもの一、私立のもの六あるも市勢の発展に鑑み尚お増設の必要を感ずるを以て義務教育延長の結果に由る施設完了の後は歳次を遂いて更に幼稚園事業の完成を期せんとするが如し
特業教育としては県立工業一、官立工業一あるも市と交渉なければ省き市立名古屋商業学校は明治十七年の創立にかかりて卒業生を出すこと已に五千、現在の生徒数千五百八十、校舎坪数千七百坪の大規模にして商業学校としては実に全国第一に居る左れば其卒業生が上京実業界に貢献するの多大なるは云うまでも無く遠く海外に航して貿易事業に従事する者又少からず殊に昨年の日英大博覧会に際しては全国実業学校の代表者として本校の成績品を同会に出品したるに審査の末名誉賞牌を受領したりと以て其成績を窺うを得べし
社会教育に就ては遺憾ながら其施設の特記すべきものより少なきが中に展覧会事業は一昨四十三年三府三十県及び台湾北海道等に亘る教育品展覧会を市内に開設し来観者二十余万人に上りて予期以上の効果を収めたり併して市内各所に教育品又は古書画等の小展覧会を開催しつつあるが日常設の教育品展覧会場を設置するの議あり講習会講談会等は前者は教育の外(ほか)勧業に就ても長期若しくは短期のものを開催して好成績を収め後者は市より市教育会に補助金を交付して通俗講談会及び月次講演会等を開催し又内外名士の来着を機とし臨時講演会を開設する事あり図書館事業は市の施設す極めて多端なる未だ何等の着手を為す時機に達せず私設図書縦覧所二三あるも極めて小規模にして記述に足らず
名古屋市は元来耕地少なく去四十年熱田町及び小碓村の一部編入と共に多少増加を示したる事あるも逐年商工業の発展するに伴い市内に点在する耕地は自然宅地に変換せらるるの有様なるを以て従て農業助長に関する格段の施設なるもの是なし尤も曩(さき)に農事改良の目的を以て名古屋尚農会なるもの組織せられて斯業の発展に努力しつつあるも耕地面積の狭小なる以上之が助長機関の規模又大なる能わざるは止(やむ)を得ざる処なり之に反し一般商工業助長の方法に至りては各般の施設頗る見るべきものあり則ち本市には従来愛知県五二会及び名古屋商工懇話会等の実業団体ありて何れも工業の改良発達を企図し春秋二期共進会及び品評会を開催し市は之が奨励として補助金を交付し大(おおい)に援助を与う然れども市内には以上の二団体の外(ほか)尚各種の小団体分立し互に割拠して当業者は其間に介在し去就応接の煩累に堪えざるものあるを以て有志相謀り各団体を打て一丸となし産業界の刷新改良を図る目的を以て昨年七月名古屋勧業協会なるものを組織したり同会は創立日浅く目下会員の募集中なるが本年三月には染織物品評会を主催開設せんとして今や各般の準備中に属せり

[筆者注]
*括発―「挑発」の誤植か。


日本の都市(二十一)
名古屋市(六)

電力瓦斯(がす)等の事業は市の経営に成るもの無く悉く私設会社の手中に委せらる而して前者は資本金千六百万円を有する名古屋電灯会社之に当りて発電所は第一、市内水主町に於て火力千六百キロワット二千二百馬力第二東加茂郡□岡村に於て水力七百五十キロワット一千馬力第三西加茂郡小原村に於て水力二百キロワット二百七十馬力第四、岐阜県武儀郡洲原村に於て水力五千キロワット六千六百六十馬力の設備あるも尚近き将来に於て岐阜県加茂郡八百津町に於て水力七千五百キロワット一万馬力並に長野県西筑摩郡読麦村に於て水力二万キロワット二万七千馬力の大拡張計画あり需要は電灯使用者二万八千八百五十二戸、総灯数八万六千八百六灯、動力数千七百三十六馬力にして此使用戸数六百二十五戸に上る以て其盛況を窺うに足るべし
瓦斯供給の事業は資本金二百万円を有する名古屋瓦斯株式会社に由りて経営せらる本社は市内中区南大津町に在りて現在の鉄管埋設延長百十四哩(まいる)余、其製造力は九十万立方尺にして灯熱用引用戸数一万四千四百四十一戸、機関用同く百二十三戸、灯火孔口数三万千二百二十九箇、熱用同く一万七千五十三箇、機関台数百五十二箇、同じく馬力千百八十五馬力にして日に月に増加の一方にあり又商工業助長行政の終末に於て記すべきものは市の未だ物産陳列館を有せざるの一事にして別に商品陳列館なるものあり規模聊か整備するも右は県の経営に属して市の関与する所にあらず尤も其費額に付(つい)ては市に於て負担支出しつつあり
市の財政状態は以上の如き市勢の発展に基き近年著しく膨脹し来り四十四年度の予算の如き歳入出費額実に二百三十一万六千余円の巨額に上りて全国中東京大阪を除き之に匹敵するものなきの状勢に在り今重(おも)なる科目の出入を表示するに左の如し

(歳入出の表。省略)

尚歳出臨時費としては六十六万四千余円の小学校建設費を第一として三十九万円の事業費八万五千円の教育費、三万七百円の公園費、二万四千円の土木費、一万二千円の役所費其の他を合して百二十二万四千八百二十一円余あり市債は曾(かつ)て上下水道並に教育状態の項に於て明記したる如く水道其他に要する事業公債英費六十三万磅並に小学校建築公債八十七万円の二種にして前者は来(きた)る五十年より七十六年に至る二十七年間後者は五十八年より六十六年に至る九年間に於て抽籤償還するの方法たり
名古屋の市勢を観察して将に結末に及ばんとし茲に記載を要すべきものは此日進月歩の都市行政を統理せる過去並に現在の人々是なり去明治二十一年初めて市制の施行せらるるや市長には中村修氏挙られ次で志水忠平氏に代り柳本直太郎氏又就職したるが其後ち志水直、青山朗の両氏共に陸軍出身を以て其衝に当り青山氏の後は曾て台湾総督府に判官たりし加藤重三郎氏の就職を見たり青山氏より加藤氏の時代は市の発展膨脹真に旭日冲天の有様にして従て各種事業の計企せらるるもの頗る多く将に完成せんとする上下水道の如き則ち青山氏時代に胚胎し加藤氏に至りて着手せられたるものに係る加藤氏辞職の後は土地出身の縁故に由り時の鹿児島県知事坂本釤之助氏を迎えて其統理を委す則ち現在の市長是なり
坂本氏は旧藩士永井匡威氏の三男にして予てより同胞等しく顕要の地位に在るを以て知らるるの人たり則ち長兄松右衛門氏は衆議院議員として十余年前の政界に翺翔し次兄久一郎氏は文部官吏より郵船会社に入り現に主要の椅子を占むるの外(ほか)禾原の別号に由り漢詩界の一老手たるは何人も首肯する処ならん弟に(ママ)前台湾民政長官大嶋久満次氏あり甥に文学者永井荷風氏あり共に各[輩]華当代に響く坂本氏は始め内務省に仕え次で滋賀県属に転じ学務衛生等に課長として令聞あり後ち控訴院書記官より滋賀県書記官に任ぜられ奈良、岡山等を経て貴族院、内務省、東京府等に書記官たり三十五年福井県知事に陞(のぼ)りて在職五年、四十年末鹿児島県知事に転じ高等官一等に叙せられたるが郷人の懇請に由り加藤氏の後を襲いて市長に就職し程なく貴族院議員に勅選せられたり現任助役を榎戸利吉氏と云い等しく県下内海町の産にして東京帝国大学法科を去る三十九年卒業加藤氏時代に助役に挙げられて以って今日に及べり(完 次は長野市)

(原文は旧字旧かな。新字新かなに改める。[]は、判読困難或いは不能な箇所を筆者が推測で補ったもの。「□」は、判読不能の字。)

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