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日本の都市(二十六)~(二十八)仙台市

日本の都市(二十六)~(二十八)(「東京時事新報」明治45年(1912)1月13日-15日)

日本の都市(二十六)
仙台市(上)

宮城県の中部広瀬川の左岸に布置し東北随一の大都として知らる東は木の下、榴ヶ岡の名区を帯びて渺茫なる宮城野の平原に連り南は広瀬川を隔て越路、愛宕の林巒を限りて各内部茂ヶ崎に跨り西並に北は青葉山を以て宮城郡北七田村字荒巻に隣(とな)る東西一里十六丁南北一里二十丁周囲八里十三丁面積一方里一分一厘にして現在包容する戸数一万九千五百此人口九万二千百余「僊憂風物自[熙]々、十二楼頭花鳥時、比屋可封三万戸、人烟蒸作彩雲飛」と詠じたるは聊か詩人の誇張に失したらんも東北一円を統理管轄すべきもの官庁学校等今や全く此地に密集し商工業の発展又昔日の惰眠を破りて進況頗る見るべきものあり此趨勢にして頓挫なからんか近き将来に於ては或は維新当時の大蹉跌を回復して一大文明的市府の出現を見るを得(う)べく地下の独眼竜又微笑を含んで其成功を祝するの日遠きに非ざるを信ずるなり
仙台城市の起源は頗る古く或は景行帝蹕(ひつ)を此地に駐めて夷族の討伐に当られたりと云い又は継体帝始めて此城を築き用明帝に至り千体の仏を安置したるが甚ぞ名称の起源なりなど古書に散見するも暫く其詮索を見合せ今の仙台が東北随一の城市として崛起したるは云うまでも無く慶長七年伊達氏の此処に築城して中奥二十一郡九百七十村を領して以て隠然天下の変を窺わんとしたるに始まる爾来三百年地理上よりは中央の影響を蒙ること極めて薄く唯英邁なる藩祖の余慶に由りて其社稷を維持し領民又農事に精励して糶米(うりまい)の高(たか)諸藩に冠たりと称せられ来りたるが戊辰の変一朝順逆の途を誤りて東軍の盟主たりし結果は封を削らるること三十五万石にして一藩の疲憊殊に甚しき其窮困名状すべからず遉(さす)がの奥羽の雄藩も蕭然たる荒村寒駅の観を止むるに過ざりしが明治十一年区制を布かれ同二十二年始めて市制の施行に逢いて茲に漸く独営自治の基(もとい)を立て爾来漸(ぜん)を逐いて市勢の恢復を見んとしつつあり
試みに数字上に於て市勢発展の跡を見んに始めて区制を布かれたる明治十二年に於ては戸数僅かに一万千五百、人口五万五千に過ぎざりしが同二十二年市制執行の当時に入りては戸数五千を加えて一万六千五百戸となり人口一万九千を増して七万四千の多数に上りたるが更に二十三年後の今日に至りては戸数三千、人口一万八千余を増して現在の状勢曩(さ)きに記述する処の如し而して啻(ただ)に戸口の増加のみに止まらば地勢に於いて奥羽の統制に適するものあるが為め官衙学校等東北六県を管理統轄すべきもの悉く此地に集まり随て是等諸機関の需要に応すべき各種の商工業も亦次第に進歩するものあるが故に近時の仙台市は真(しん)に維新当時の悲境を脱出して前途に一道の光明を認むるものありと云うべく殊に前々市長早川智寛氏励精治を図りたるより各種の産業は勿論衛生、教育、土木等全く旧来の面目を一新しつつあり試みに仙台市の沿革を時代別となせば士族俸禄の時代去りて役人給料の時代来り役人給料の時代衰えて教育余潤の時代将に到来せるものと云うべく近時仙台の繁栄は下(しも)は幼稚園より上(かみ)は大学に至るまで諸般教育機関の余潤に負う処決して尠少に非らざるなり
始めて市制の施行せらるるや遠藤庸治氏市長に就任在職実に十年の長きに亘りたるが明治三十一年に至り里見良顕氏之に代る里見氏三十六年に入りて辞任し早川知寛氏就任し治績頗る見るべきものありしが四十年に至り其椅子を退き和達孚嘉氏後を襲いたるも在任久しからず四十年三月遠藤庸治氏再び市長の任に上(のぼ)る氏は仙台藩士にして少壮法学を修めて法律事務に従事し傍ら地方政治に関与して県会議員県会議長等の要職に在り二十二年の市制実施に当り衆望に由り始めて其任に就きたるが三十一年辞して宮城県農工銀行の頭取に推され三十六年には郡部より衆議院議員に当選し三十九年再選、四十一年満期退職の後ち和達氏の後を享けて再び市長に挙げられ以て今日に至る助役は千葉胤雄氏にして身を教育界に起し頗る敏腕の誉あり


日本の都市(二十七)
仙台市(中)

市立の小学校数は現在のもの十二校にして外(ほか)に師範学校に付属するもの並に私人の経営に係るもの二校あり右の内高等科を併置するは六校にして単に高等科のみの施設に出(いず)るもの一校を存す然れども此規模を以てしては年々増加する児童数適応する能わざる故に市は二十万円(ママ)の巨資を投じて全小学校に亘る大改増築を企て目下其準備中なるが教育費の多大なること実に市費全額の三分の二を占むるに見ても知らるべし小学校の外(ほか)市立の甲種商業学校及び乙種工業学校ありて何れも市勢の発展に伴随すべく商工業に必須の学術技芸を授く又特種教育機関としては盲人及び唖人教育所あるが孰(いず)れも私人の企画にして市は単に経費の幾分を補助するに止まる
社会教育の方面を見るに市教育会の施設は夙(つと)に完成して県又は市の教育当局者と協力して常に斯業の発展進歩に貢献少からざるの外(ほか)県立図書館は市の中央部に在り蔵書の数地方図書館中稀に観るの豊富にして日々五六百人の閲覧者常に堂に充ち盛況を呈せり今回尚お十万円の経費予算を以て大改築工事を起しつつあれば竣工の上は恐らく全国屈指のものたるに至らん又感化事業としては宮城修養学園の建設已に完成して県下の不良少年を収容し感化訓育の事に着手したるが創業後未だ幾干(いくばく)の歳月を経ざるを以て其成績を記述する処に達せざるは遺憾とす而して教育設備中々等教育機関には県立中学二私立中学二、県立高等女学校一私立同二あり生徒数は多きは一千に上り少きも四五百を下らず特業教育設備には松操学校、東北女子職業学校、柳絮学校等あるが殊に松操学校は我邦三大裁縫学校の一と称(とな)えられ已に四千人に近き卒業生を出し現に六百名の在学生徒あり創立者朴沢三代治氏は其手工界に尽したる功績を以て藍綬褒章を賜わるの名誉を荷えり
市の救済事業には仙台育児院あり東北慈恵院あり宮城授産場あり育児院は米国の宣教師ヘルプ夫人が去三十七八年に於ける東北の大凶歉を見て博愛慈善の心動き専ら窮民の子弟を教養せんが為め設立したるものにして現に二百余名の孤児貧児を収容し家族主義の経営法によりて団欒の情懐を味わしむるの外(ほか)更に独力小学校を起して懇切に智徳の開発に当る洵に慈善界の模範とすべし宮城授産場は其名称の示す如く貧家窮民の子女に授産の途を教ゆるものにして東北慈恵院は主として施薬救療のことに当れり而して育児院主ヘルプ夫人は創業日浅きに拘わらず成績殊に顕著のものありとして文部当局より二回の選奨を受けたり
衛生事業中下水道工事は市の最も力を注ぎ来りたる処にして最初仙台市内を二十三区に分ち漸を逐いて工事を完成せんとするの方針を採り明治三十年十月起工を決議し県の補助を求めて三十二年六月より排水路の掘鑿に着手したるが爾来七箇年を経て三十九年七月全部の竣工を見たり而して上水道並に公園事業は是に次で起り来りたる大問題なるが右は便利上後項に譲り衛生施設中の一として見るべき市場経営を見るに青物魚類共に維新前より継続し来れる個人の設備に委して市は未だ指を染めんとしたる事なし青物市場は一箇年の販売高は一万七八千円魚類同く二十四五万円に達する由なるが魚市場は其位置市内の中央枢要の地点にあり臭気四散、衛生上決して等閑に付すべからざるを以て曾て移転問題発生したる事あるも未だ実行の運びに至らず
浴場は一般都市と同く全部私人の経営に属し市は唯衛生取締の必要上警察署の助力を得て毎日一回大掃除を執行せしむるに止まる屠場は先年より市の直営とし郊外に新設開場しつつあるが一ヶ年の屠殺数牛六百頭内外馬百二三十頭豚二千五六百頭に達して成績先は良好と云べく埋葬場中其市内に在るは伝染病死亡者と共に必らず火葬を励行せり埋葬数は一箇年約千四五百人なるも去る四十年来墓地々域を拡大せざるを以て漸く狭隘を告げんとするが如く又市内に一消毒所あるも県営にして市と関係なければ略す


日本の都市(二十八)
仙台市(下)

市内の道路は極めて狭隘にして電車敷設の計画をなす者多きも目下の状態にては到底人車両道を区分する能わざるが故に之を遂行するに由なし市も此処に見る処ありて先年来新たに家屋を建築する者は路傍より必ず三尺を去りて築設すべき旨を規定し之を励行して以て多少とも路幅の拡張を図らんとしつつあれども斯くの如き姑息の方策は勿論時代の要求に応ずべきものに非らざるが故に昨年に至り遂に大英断を揮いて市区改正の事業を決行するに決し百九十万円の事業費を可決したるが其実施期に就ては起債其他の関係ありて未だ確定するに至らず
市内の農業は其の耕地の左程に広大ならざるを共に多年来面積一定して何等増加する処なく随て記述に値するもの是なし唯副業奨励の結果果樹、桑園、藺等の栽培は漸次普及の傾向ありて去る四十年には十六七万円に過ざりし農産物の四十二年に入りては二十四五万円に増加し且つ市内の養蚕戸数も年を逐いて多数に上れり工業には織物、漆器、筆紙、埋木、傘、麦粉等を主なるものとして此産額二百五六十万余円なるが有名なる仙台平の如きも近時は其類似品各地に織出されて之を独占すること能わず又市内に完全なる買次所の設備を欠くが為め進歩の跡甚だ遅々たるが如き観あり
電力供給は曩(さ)きに市営の方針を立てて仙台電気会社を買収し今や残存する紡電会社に向っても買収交渉中に属すれば近々の内純然たる市の経営下に入るべく其動力は公私合して現在のもの百五十キロワット内外を有せり又瓦斯(がす)事業は一昨年来仙台瓦斯会社なるもの起りて盛んに電気界に侵入蚕食を試みつつあるが目下のところ設備未だ不充分なるが為め単に点灯に止めて其数四五千を供給し動力は第三期の拡張工事遂行の後に譲れり又商工業助長の方法として見べきものに宮城物産陳列場あり明治三十四年の設立にして主として県下の農工物産を陳列販売し居れるが一箇年の縦覧者数約十五万人販売金額六千円内外にして大都会の物産館としては其規模大ならざるものの如し
最近に於ける市の歳出入は特種事業を除き毎年約二十三四万円にして財源は云うまでも無く市税大部分を占む又歳出の重なるものは教育費にして全歳出の大半に位し役所費、土木費之に次ぎ勧業費の如きは僅に四五千円の外に出でず市債は電気事業市営の為め已設会社の買収其他の費途に充んとして起したるもの百四十万円並に全市に亘る小学校改築費として既に起債出願中のもの二十万円あり前者は電業の収利を以て又後者は本年度より徴収と決定せる小学児童の授業料を以て之が償還に充つる予定にして此外(ほか)に市債を存せず
以上は仙台市の一般状況を記述したるものなるが更に将来此東北の大都市を如何に経営発展せしむべきかに就ては夙に当局者の画□計企し居れる五大事業なるものあり即ち(一)電気事業の市営(二)上水道布設(三)市区改正(四)公園増設(五)電車敷設にして夫々委員を挙げて調査に従事したる結果昨年の市会に於て其何れも緊要欠く可らざるものたるを認めて逐次之を完成することに決せり而して電気事業市営は前述の如く既設会社中の一社を買収し目下他の一社たる紡電の買収交渉中なるが之が解決次第市は其一手に電気事業を独占するの結果を見るべく費額は買収済の仙電四十万円、交渉中の紡電百五十万円内外にして合計二百万円を超過すべく予定額に於ては五六十万円の不足を見るも右は結局市債に求めて補充することとなるべし又上水道敷設事業も一切の調査設計を終り工費約百二十万円の予算を作りて国庫補助の申請中にあり
市区改正事業は五大問題中其至難なること随一に位するものなるが百難を排して之が断行を見たる以上公園増設、電車敷設の二問題は力を労せずして自ら解決せらるる事となるべく市当局者は全力を注いで之が遂行に当りたる末昨年の市会に於て事業費百九十万円を可決し全市の道路を一等十二間、二等九間、三等七間四等四間に拡築するの案を立て又之と同時に現時の公園の外(ほか)市内に十有七箇処の小公園をも築設せんとするものなるが其着手期未だ確定せざるも設計は已に成れり又電車は市民一般の翹望しつつある処として公営私営に論なく一日も早く其敷設を欲するも現在の路幅にては如何ともなす能わざる処即ち市区改正と相俟って実現することとなる可く右の五大事業完成の暁には仙台市の面目は全然一新するに至るべきなり(完、次は京都市)

(原文は旧字旧かな。新字新かなに改める。[]は、判読困難或いは不能な箇所を筆者が推測で補ったもの。「□」は、判読不能の字。)

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