日本の都市(十四)~(十五)(「東京時事新報」明治44年(1911)12月29日-30日)
日本の都市(十四)
水戸市(上)
旧城廓を中央にして東西の二区に分れ西を上町又は上市と云い東を下町又は下市と呼ぶ那珂川の右岸に当る丘陵を占めて岡勢起伏し東西一里八丁、南北十五丁余、上市は高燥なるも下市は稍や卑湿たり城は中古大椽氏の築く処なるも其年代詳(つまびらか)ならず大椽氏亡びて後ち江戸氏之に拠り江戸氏衰えて後ち佐竹氏又之に代る次で慶長年中佐竹氏秋田に移るや家康其十一子頼房を封じて以て三十五万石を与う藩祖源威公是なり
徳川三家の一に列し所謂副将軍として声望隆々権威赫々たりしことは今説くを須(もち)いじ又義公不世出の資を以て大義名分を天下に明かにし千古不磨の光輝ある皇国の大史を編みたるの偉業又贅する迄も是なかるべし惜むらくは幕末尊攘の論起るに及び一藩の君臣牆(かき)に鬩(せめ)ぎて時勢の潮流に棹すこと能わず党争の惨禍極天に達して水府右文の政も遂に有終の美を済す能わざりしことを維新後水戸県を置かれ次で茨城県の治下に入り二十二年四月市町村制の施行に当り始めて一自治区となる
市制施行後の水戸市の発展は云う[迄]も無く近時文明の賜(たまもの)たる交通機関の改善に負うこと頗る大なるものあるが如し則ち下野小山に達する一線先ず成りて西方の往来面目を一新したるに加えて次で常陸、磐城を貫通する常磐線なるもの又此地を通過し土浦石岡の各地と共に其利便を十二分に享有駆使するの地位に立てり又久慈□太田町の間にも支線開通して棚倉白河方面の貨客を吸収すべく鉄路の完成は水戸市をして確かに太平洋岸有数の都会たらしむ殊に専売局製造所の開設は数千の下層階級に国産加工の手芸を与え又歩兵第二十七旅団司令部、同第二連隊、工兵第十四大隊等の設置は単に尚武の気風のみならず土地の繁栄上にも多大の影響を及ぼして其所在地たる常磐、渡里の両村並に付近市街の戸口俄に増加し地価の昇騰頗る驚くべきものあり試みに昨年末の戸口統計を取て之を市制施行の当時に比較するに戸数に於て二千四百人口一万四千を増加したるの事実あり昨今常磐渡里の両村を市に編入すること一の懸案として当局者間に考究せらる
市の上水道事業を按ずるに其起源は頗る古く藩祖威公入国の後幾干(いくばく)もなく市外吉田村より水路を通じて給水を司(つかさど)らしめたるの事あり然れども水量豊富ならざりし為め成功に至らずして止み次で義公先君の志を継ぎ佐倉の治水家平賀保秀を召して水源の調査を委嘱す保秀苦心市外笠原村に於て漸く其源泉を発見して工を起し幾年の後ち完成したるもの則ち旧水道にして此工事人を役する二万五千費を用する五百五十余両に上れりと伝う斯くて当時の人口六千四百内外に対し給水の事に当りたるも爾来幾星霜を経て水路破損し供給又甚だ不十分に至りしを以て市民の改築修理を翹望すること極めて切、而かも費額の為めに妨げられて果さず二百余年を経過して市制施行の後に及べり
自治独立の後市勢の発展急速なると共に水道改修の声愈(いよい)よ高く明治二十四五年の頃一度び事実として現われんとしたるも程なく日清戦役の勃発に逢いて中止し次で三十六年資を市債に得て断然改築の議を決したるも亦是れ日露戦役の起るに遇いて頓挫し平和克復の後を俟てり斯くて四十一年機運漸く熟して臨時水道部を設け実測に着手し水道市債六万円県費補助三万円を得て翌四十二年七月起工一箇年にして昨年七月竣成を見るに至れり鉄管の延長五千三百四十三間貯水池の有効水量一万二千六百立方尺にして之に沈澱用水を加うれば全水量二千二百余石一昼夜の流出水量三百六十石に当り先(まず)は当面の需用を充たして遺憾なきが如し然かも一日市に於ける専売局製造所の新築完成の暁に至らば同所に於て莫大の水量を要すべきが故に市は第二の水源池築造をなすべく最近の市会に於て三千四百円の経費支出を可決したり
市民行楽の場所には常磐公園世(ならび)に水戸公園あり常磐公園は即ち偕楽園にして天保年間藩主烈公遊息の地として拓設せられたる処にかかり広袤約三万坪有名なる好文亭は園の西方にあり四時の風景絶佳にして殊に梅花の季節の如き遠近より来遊する者頗る多く「碧水涵天連大海、青山排闥聳双峰」と詠じたるもの真に妥当にして遉(さす)がは天下三公園の一と首肯せしむ又水戸公園は城内三の丸に在りて旧弘道館址に当り啻(ただ)に眺望の優秀なるのみならず一度登りて八卦堂前に立てば白寒水石の館砕巍然として八十年前文武講習の光景を語るが如し館の中央に鹿嶋神社あり烈公親しく鍛錬する宝刀を納めて神体に擬すと云う両園共に版籍奉還の際一度び政府に献納したるも明治六年公園地に編入県の管轄に属したるが二十五年市の管理に移り市は毎年二千余円の維持改修費を支出しつつあること後段財政の項に記すが如し
日本の都市(十五)
水戸市(下)
教育事業に於ては市内に師範学校、商業学校、農学校、女学校あり仙波湖の対岸には又工業学校あるも何れも県経営に属して市と交渉なければ之を省き降(くだっ)て普通教育の方面を見るに市内住民の増加並に一般教育思想の普及に伴いて逐年就学児童の数を増加し現在の尋高併置一、尋四の五校にては稍(や)や設備の不足せる如きを覚ゆ殊に義務教育年限延長の結果として既設の校堂に於ては著しく狭隘を感ずるに至りたるを以て増築又改造費額の膨脹真に驚くべきものあるなり試みに自治制施行当時の生徒数及び教育費を以て之を四十四年度に比較するときは二十二年の生徒数千二百三十九人費額二千八百五十八円なりしに対し四十四年度の生徒数は四千四百五十四人費額三万四千五百二十八円にして人に於て三倍五分強(きょう)金(かね)に於て十二倍強の激増を見るに至れり以て普通教育の如何に発展進歩せしかを窺うに足るべし
彰考館は旧藩時代に於ては城中に存して則ち大日本史の編修所たりしも今は常磐神社の南崖下に移りて徳川侯爵家の文庫となる又市内に県立図書館あるも規模甚だ大ならずして旧時「書策謹不可汚壌紛失之、[囂]談諍論宣最戒之、論文考事各当竭力」との館警に服して専念読書修史の業に従いたる盛観なきを憾みとす又茨城盲唖学校は去三十九年時の知事森正隆氏の在任中有志を慫慂して設立せしものにかかり既に三十有余人の生徒を収容して成績不良ならず又私立学校としては挺秀女学校、水戸塾、幼稚園等あり水戸育英会は旧藩有志の協力設立せるものにして優秀学生に費用を貸与し進んで高等教育を受くる便宜を得せしむ
娯楽場としては市内に劇場五箇処寄席一箇処あり改築竣成したる水戸座は稍や旧観を改めたる模様なるも音楽堂の如き文明的の設備は未だ起るものあるを見ず物産陳列館並に公会堂新設の議は一部有志の間に唱道せられて今期県会の問題たりしも脆くも否決の不運に遭いて前途甚だしく茫洋たり茨城孤児院は去三十九年特志家矢口伊兵衛門氏の創設せるものにして現に孤児千余人を収む経費は毎年千円内外にして慈善家の義捐に依り已に内務当局の為めに管理者は収容児童の後見執行を命ぜられたり市場は上下(かみしも)両市に各一箇処の青物市場あるのみ屠場火葬場等は悉く私人の経営に委し隣接村落に在り胞衣及び産穢物埋蔵場等あるも旧慣を墨守して之に委託する者甚だ少なし
市の交通並に勧業状態を見るに上市柵町付近の鉄道線路に沿える一帯の家屋は往々火災の虞(おそれ)ありとして昨年度鉄道院の設計に基き市は斡旋尽力の結果沿線家屋に対し鉄道院より一万二千余円を交付し悉く不燃質物を以て其屋上を改築し為めに危険を免るを得たり水戸磯浜間の交通は道路に拠るの外(ほか)那珂川の汽船を以て往復しつつあるが不便多きを以て自動車電車等の目論見頻々として起るも実行に至らず水戸商業会議所は此間に鉄道敷設の意見を樹て決議を其筋に建議したるも経費多端の折柄到底目的を達すること不可能ならん市には市農会あり二箇処に試作地を置き蔬菜の栽培を行い本年は十一月中農産品評会を市役所内に開催したり出品人四百七十八人出品点数九百十四点にして著々成果を得るものの如し
自治制施行の当時即ち二十二年度の財政状態を見るに歳入出総計八千九百三円の少額に止りしが本年度に於ては追加を除きて総計八万二千二百八十六円に達し二十二年茲に比し殆ど九倍の増加を為したり市の直接国税は当時地租三千十八円所得税三千四百四十六円合計六千四百六十四円に過ぎざりしが本年度には地租二万十六円所得税三万三千四百四十五円となりて前者は六倍六分後者は九倍七分の増加を見たり又別に国税に編入せられたる営業税三万八千百九十六円ありて直接総額は実に十四倍強に達せるを見る二十二年間に於ける国力増進国債膨脹の結果なりとは云え一面市民の実力並に其負担の進歩加重せし蹟(あと)を証するを得べし又市税総額を比較すれば二十二年度には七千二百八十二円なりしもの今は五万三千九百二円にして約七倍四分に当れり
現在の市債額は九万九千七十八円にして内水道公債七万四千六百九十八円、学校増築公債一万七千三百八十円、財産造成費公債七千円にして水道は毎年一万九百四十八円、学校は七千四百六十九円、財産は九百四十二円を元利金中に償還し其期日は長きは十二箇年短きは三箇年の間にあり市は又曩(さき)に陸軍省の所轄地なりし旧城址の四十三年中県に於て排下(はらいさげ)を受けたるを好機とし周囲の[濠]渠敷並に土手敷一万三千余坪を更に市に譲受けて埋立工事を完成し新道の開墾宅地の造成等目下停車場付近に於ける人口増加に基く宅地の需要を充さんと計画しつつあり又同地の南方に位する仙波湖の一部内堀八千坪をも仙波湖水利組合と交渉して市の開墾地となし是れ又四十五年度より埋立事業に着手して宅地を造成し以て市の発展に資せんとす
自治制施行当時の水戸市長を服部正義氏と云い二十五年に至りて辞任し小宅時正氏之に代る次で酒泉忠温、床中弘両氏を経て去る三十九年現任市長原百之氏の就任を見たり原氏は旧水藩勘定奉行の家に生れ幕府目付役として令名ありし原市之進氏は実に其叔父に当る百之氏は維新の後ち内務省に仕え陸軍、農商務、茨城県等に歴任して三十七八年戦役の当時は西茨城郡長として救援事業に尽瘁し後ち笠間町長に挙らる三十九年十一月始めて市長に当選し同年末就任したる以来専ら市政の刷新を図り兵営新築当時の如き殆ど寝食を廃して之に奔走したり齢六十に達するも矍鑠(かくしゃく)壮者を凌ぎ特に社交術の巧妙を以て知らる助役長谷川壮介氏は山口県人にして逓信部内の出身たり(完)次は名古屋市)
(原文は旧字旧かな。新字新かなに改める。[]は、判読困難或いは不能な箇所を筆者が推測で補ったもの。「□」は、判読不能の字。)