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「南米聖保羅の家族移民」

南米聖保羅の家族移民(一)~(四)(大阪朝日新聞、明治45年(1912)3月26日-31日)

南米聖保羅(セントポール)*の家族移民(一)
在巴四 聖州子

到る処、黄色に赤く熟した蜜柑がポタリポタリ地に落ちて居る、白い牛や黒い牛がノソリノソリ集まって来ては其の落ちた赤い実を一つ一つ噛り廻って居る。見るからに巴西(ブラジル)は暢気な処じゃ、牛が蜜柑を喰って歩いて居る。
一にも北米、二にも北米と北米の声は如何にも高い、成程北米には既に十何万と数えられる同胞が渡って居て、味噌もあれば醤油もある、豆腐、蒟蒻、鰹節もあれば妓楼もあり蕎麦屋もある、何かにつけて一の不便はなく、働けば金は儲かる、物価も安し気候もよし、喰って住むのに極楽の北米は、日本から海一つを隔つ許りだから、此先とても第一の好発展地たる事は疑われぬ、がそうばかりは問屋で卸さぬものか先年来の排斥と来た、而して排斥の一面には何うやら先方にも尤もらしい理窟があるとも言われる、北米三界蹂躪の雄志を抱ける日本の方々もチト遠方で御気の毒だが、炎暑の雲低く迷う南米にでも遠征を企てられたら何うだろうと想う、茲に先年渡航し来った日本家族移民の消長の大略を御報告する事にした。移民を送るは移民の本国よりも寧ろ其の送らるる、土地の方が未開なる時に於て移民の発展力は偉大なるものであるそうな此の条件から推して見ても、日本人の発展に都合のよいのは北米上りよりか、南米下(くんだ)りの方が確実だと思われる。去る四十一年以来前後二回の伯国*日本家族移民千六百余名が此の聖(セント)州に於ける発展を見ると、上成績とは参らぬまでも、兔に角此後の有望は敢て推察に苦しまない。
千六百の老幼男女は契約移民として、一時聖保羅(セントポール)州*のコーヒ耕地に落着いた、間もなく一部の不平家は何の蚊のと理屈をこねてまだ契約期の終りもせぬ中に、密に夜遁(よにげ)をしたものも少くなかった、又契約期が済んで町に出たものも大分あった、そして今では聖(セント)市の町々に四百名近くの日本人の家が、其処爰に二十三四軒ほども散らばって、各自職業に有り付いて居る、大工もあればペンキ屋もある菓子屋もあれば錻力屋(ぶりきや)もある、鍛冶屋、料理人、家庭労働、女にも亦それそれの働き口がある、其の生活状態、労働賃銀を北米に較べたなら勿論天から御話になるまいが、兔に角斯様である。

聖保羅市の日本人職工
聖市に於て、日本人の大工の元祖と呼ばるるは、鮫島直哉と云う第一回移民の鹿児島人だ。此男、最初から聖市に止まって、大工を志願したが、伯国語は一切通ぜず、知人はなく、其の困難一通りではなかった。兔に角、腕に覚えの有ったものだから、日給四ミルレース(二円四十銭)と云う所になったそうして他に同県人の池上二次郎と云う鍛冶屋夫婦も聖市に留まる事になって此の三人は西洋人の家の一室を借り受けて共同自炊をし初めた、が何を言うにも米一俵(三斗入)十八円、燐寸(マッチ)の小函一箇が六銭と云う物価なもんだから米の飯処ではなかった、其の頃彼等三人は家賃の二十ミルレース(十二円)を頭割にして何でも十四円半位の処で一人前の小使銭まで上げて居たらしい、そして最初寝台もなく、室の床に莚を敷いて毛布にくるまって寝たものだ、それでも夫婦に此の大工と三人が横になれば身動きもならぬ位十二円出しても室は狭まかった其の後珈琲(コーヒ)耕地から出て来た移民が段々と殖えて、鮫島の弟子入りしたものもあれば、鍛冶屋の小僧になったものもあった。今では聖市の日本人四百名近くある内に、大工になったものが九十余名もある。此等は日本で腕に覚えのあるものも二三人あったけれど、先ず釘を打つことも出来ぬ連中が大分あった、恰(あたか)も当時は聖市に市区改正が行われ掛った機会に投じたものだから、一夜造りの大工さんにしても、日本人には毛唐の大工二年生より遥かに器用な腕を先天的に持って居た、従って大概な処は雑駁な建築とてごまかしが出来たもので、師匠入らずの大工になりすましたものが、中々少くない加うるに一ツ日本人にとって大なる武器があった、伯国語の通じない処から、大抵の失策は大工の親方も小言を云うのを面倒がると来てるから、言語の不通は不能かくしに禿頭の帽子よりは間に合う割のよかったものである。沈黙は豪いものだ。
技倆に於ては一夜作りの大工さんは、到底外人の黒人(くろうと)に及びはしない。而も大工の親方に日本人の一夜大工が信用を得た処は、仕事に対しての熱心と云うものを見逃せなかったに違いない。外人の大工は力もあれば技能もある、然し親方の居らぬ処では横着もやれば昼寝もやる、朝七時から、夕も四時まで、油売る事の夥しいものよりか、言語が通ぜぬにしても熱心に働く、ジャボンネースは、親方に歓迎された第一の理由であった事と察せらる。今日では大工の賃銀も一般に値上げされて、元祖の鮫島が四円五十銭を頭(かしら)に二円三四十銭より三円五六十銭までが普通となった。斯様な訳だから大工さんの景気のよい事夥しい、八公(はちこう)、熊公は愚か人も我も大工になると云う騒ぎだから、鋸と鉋さえもって居れば、伊人の女でも伯国女でも、三々九度は御望み次第と云う豪気さである。

[筆者注]
聖保羅(セントポール)―サンパウロ。
伯国―ブラジル。


南米聖保羅の家族移民(二)
在巴四 聖州子

大工に次ぎて、大分景気のよかったのはペンキ職工である、此の元祖は矢張第一回移民の高知県人間崎(まざき)と云う若者であった。最初腕に多少の覚えがあった所から、伊太利(イタリー)人の親方をつかまえたのが始まりで、段々修業してる間に一人前の男となった。日本人の弟子入も四五人出来て、一時は請負も始めかけて見たが、余り思わしく行かなんだので、矢張日給働きをつづけてる。給料は元祖が七ミル(四円二十銭)で三円二三十銭から一円二三十銭の処である。そして今日まで既に十人からのペンキ工が出来てる。今少し頭のあるものが出て奮発一番請負でも始めようものなら将来有望な日本人の一職業となるだろう。働き時間は朝の七時から、夕の四時までの八時間である(一時間は飯)が、時間増の仕事をすれば、従って収入も相当に多くなる。
鍛冶工としては第一回移民の池上なるものが今の尚サントス港の町に働いてる、其の後三四人の弟子入、見習など出かけた日本人のないでもなかったが、途中で振わなくなった、第二回移民で福岡の杉野兄弟が鋳物師として、英国人の建設せる鉄道会社に傭われて少からず信用を得て居る外、同県の椎崎某が鍛冶を以て働いて居る、賃銀の方では何れも伯仲の間にあるが、日曜を除いて月に百円内外の収入にはなってるとの直話である。
仏蘭西人の経営せる、ピスコイトの大会社に、菓子工として働いてるものが又十人以上ある。何れも一日一円五十銭から二円四五十銭にはなって居る。
此の外日本人の労働としては錻力(ぶりき)工場に傭われているもの、製紙会社の木の皮むき、或は商店に小僧として、裁縫屋の熨斗方、自動車の運転手など他に種々の方面に向っては居るが、現下日本人で最も遣って居るものの多い労働は家庭の料理人と家庭労働の給仕人とである。
料理人の方は、給仕人より多少技能が必要であるだけ、其の数は少いが、それでも七八人は居る、女もやってる、総て伯国に渡ってから覚えた伯国料理に過ぎないのだが、それでも向う賄で月収五十円多きは七八十円までの収入である、一日に朝夕二度の料理さえしてしまえば、体も自由になる、それに料理の材料からも幾分かの用達費を家によっては握られるので、存外割のよい職だのに、どうも日本人の料理人が少い、是は米の飯と牛肉の鋤焼とを以て無上の料理と心得て居る日本移民にとっては、毛唐式の七面倒臭い料理が、チト腹に入り兼ぬるのかも知れない、又北米でウェーター、当国でコッペーロとは家庭労働の給仕人のことだ、料理人と異なり随分時間の長い仕事で、又北米のそれと較べても、伯国のコッペーロは中々楽な労働じゃない、家によって違うけれど先ず朝は大抵五時半に起きて夜は十一時、晩となると十二時過ぎにならねば自分の体になれぬ、そして其の間一寸の暇もなく追い使われるのが伯国の家庭労働である、北米辺では暢気に学校へ通わせて呉れる家があるそうだが、当地ではそんな主人は薬にしたくもない、是は北米人と伯国人との間に文明の差のある処であろうが、伯国人が近き昔まで奴隷を使って居た時の根性が、未だに失せずにある習慣とも見られる。傭人(やといにん)と云えば味噌も摺らせる、靴も磨かせる、便所の掃除から庭掃(にわはき)までさせて矢鱈に追廻して得意がって居る、仮(よ)し偽善にしても北米あたりの文明は、労働者に取って兔に角難有いと、是は北米から遥々(はるばる)当国に来て一年もコッペーロを勤めて又北米に逆戻りした一千葉県人の泣き言であった。兔角伯国では黒人の女までが馬鹿に階級がって居る、それで此の家庭労働は彼等の呼吸を呑込んで図々敷くなって少々耳痛い小言を喰っても、平気にならぬと一軒の家に長く勤める訳にいかぬ、余り気の長くない日本の若者や涙弱い若い娘にとっては、先ず家の主婦と衝突して、「帰れ」を喰ってしまうが常である。
今聖市内に此家庭労働をつづけて居る日本移民の若い男女を数えて見れば中々少くない、今でこそ日本人のコッペーロ、コッペーラと呼べば、何処の家からでも引張合の姿で、態々(わざわざ)主人が馬車で迎いに来てくれる景気だが三年前、日本人が始めて、家庭労働者として打って出た時などは、誰も相手にして呉れなかった、偶(たまたま)働き口があっても、日本人なら、先ず月給は六円位出して見ようか、と云う位の話だった、然し其の時代は、兔に角何んでも働いて見せると云う日本移民一般の意気込にて働口さえあれば、骨身を惜まず働いたものだ。三年後の今日、日本人の評判は何うであろう、仕事に忠実で、清潔で、孤鼠々々盗(こそこそどろ)の根性がなく、安心して家をまかせられる、と云うが洋人妻君連の日本人を使った経験話である。
其れで月給は田舎からポット出の言葉も通じない日本人で先ず二十ミル(十二円)から毎月三円ずつ増して遣るが多少此方に経験あるものには、傭った月から、金三十円乃至五十円までは惜しまず出すようになった。
僅な移民の若者等が、聖市に於ける家庭労働者として、斯くまで信用を得た事に関しては、譬え人の下僕に過ぎぬとはいえ、慥かに奮闘である、将来彼等の貯蓄せるものを以て、此の聖州に農なり工なり商なり、独立をなすの資本に供せんため、今の苦境を忍ぶものとすれば、真(しん)に実もあり花もある奮闘振りであろうけれど、唯下婢、下男として食うに止まらば、少しも日本移民の名誉とはならない。
聖市に於る日本人の職業として更に女の仕事として煙草巻、商品のレッテル貼り、洗濯屋、紡績女工等種々に使われて居る、煙草巻にしても、一日十一時間も働けば、多少の熟練を得れば一円七八十銭位の利得にはなる、紡績の糸繰(いとくり)として、既に二年の熟練ある山口県の福原某女(ぼうじょ)は、十一時間の労働で、月々五十円位になります、と語った。聖州の首府サンパウロ市は人口三十八万、今や伯国の首都リオ、デジャネイロ市漸く古(ふ)りたるに当って、伯国中第一新進地として此のサンパウロ市が最も有望の地に立って居て、伊太利人の来往するもの市人口の四分の一、土耳其(トルコ)人の渡住するもの、又万を以て数う、西班牙(スペイン)人、葡萄牙(ポルトガル)人、英人、北米人、独逸人、国滅びたる猶太(ユダヤ)人、黒奴も住む、此の国は世界各国人類の展覧会の姿である。而して此の後日本民族が万十万と来往したにもしろ、万々排斥の声は萌すまいと認められる。


南米聖保羅の家族移民(三)
在巴四 聖州子

第一回移民には沖縄県人が、全数八百の三分一以上を占めて居た、そして彼等の容貌風俗が、純日本人との間に多少の相違のあった事は、日本移民を始めて見た伯国人の眼に明かに感じた事だそうな。聖市の移民係官さえ、あれは支那人に似て居ると言った話が、今に消えずに残って居る。三年後の今日、其の琉球人の状況に就て一寸茲(ここ)に報じて見たい。
珈琲耕地から逃げ、或は遂われて、兔に角耕地では余り成績のよくなかった琉球人は、今は殆ど此のサンパウロ市に姿を見せぬ。彼等は総て同州のサントス港頭に一団となって住んで居る。そして彼等の労働は、純日本人の如く種々の方面に異なる職業には就かず、百人が百人とも、サントス港出入船舶の荷上げ荷卸の人夫となって居る。珈琲輸出の港だけ、年が年中珈琲嚢担ぎの仕事はある。琉球の熱地に育った丈けに、熱には堪える体躯と見えて、伊人、西人が困難と感ずる苦力(クーリー)仕事を彼等は平気で働いてる所を見ると成程天は適当なる職を適当の人に与えたものだ、而して彼等の収入は、多忙な月と閑暇な時との差はあるが、平均月収百円内外になって居る、又二年前、此の嚢担(のうかつぎ)の一派に別れて、伯国の隣国亜爾然丁(アルゼンチン)国へと渡ったものが大分あった。彼等は亜国のプラタ河を溯って伯国の未開地マドグロソ州を通貫する西北鉄道の工夫になったそうな。其の後は確たる状報にも接しなかったが瘴癘の毒気に打たれて彼等の中には、少からず病死者があったと風聞されて居る。
此の西北鉄道の工夫としては、又聖州の方からもマドグロソ州に入った日本人五十名近くもあった。そして琉球人の働いてる地の他端ではあるが、矢張卑湿不毛の荒地、猩紅熱が烈しくて「行くものは再び帰らず」との謡言が、一時聖市の移民間に烈しく起った、が一部勇猛の青年は断乎として出かけた、所が存外好結果を得て帰って来た。そして鉄道工夫の賃銀は、一日三円を収めたと云うことであった。
世界に名高い聖州の珈琲耕地は見渡す限り茫々果しも附かない程で珈琲樹の大海原、先般井上円了博士も来て見られて只其の壮観に打たれて戻られた。全く日は珈琲の原から出て、珈琲の原に没する此の珈琲耕地が家族移民でないと入耕労働を許さないに就て、種々の事状がある、コーヒ耕地の労働は勿論苦しい辛いものではない。「日本の百姓の半分位も骨が折れますべーか」とは、茲(ここ)に働いて居る福島県の百姓の言葉で、実際其局(そのきょく)に当って働いて見ても、珈琲耕地の労働は格別辛いものでない。それに第一回第二回両度の移民が、何うして、不成績の悪評を取ったかと云うと、二回とも其の移民は真の百姓、真の家族でなかった所から、珈琲耕地の真の甘味(うまみ)を嘗め損なったのに原因して居るのだ。
珈琲耕地、右を見ても、左を顧みても悉く是れコーヒの樹、四周幾十里、幾百里、総て是れコーヒの林である。そして、其仕事も、梯子をもち、鍬をもち、篩子(ふるい)を持って朝夕働かねばならぬ仕事であるから青白い顔の町人(まちびと)にとっては、決して辛くないとは云えないが、日本の小農者の年が年中働いても働いても、金は貯らず、唯喰って骨折るばかりの、境遇から較べて見たら、コーヒ耕地の仕事などは、全く日本の農家の半分位骨も折れようが、又一方貯蓄の十分に出来ると云う慰みが、珈琲耕地の甘味の一つである。金を作る百姓には、珈琲耕地行(ゆき)を勧めたい。耕地には芝居もない、芸妓も居らぬ、見渡す限り唯コーヒの林である。豆も作れる、米も作れる、苧も出来れば、玉蜀黍(とうもろこし)も出来る、豚も飼える、羊もかえる、鶏も育てられるそして此等のものは、相当な時価でドシドシ売捌かれる。珈琲耕主は之に就て、便宜こそ計れ、束縛は少しも出来ぬ、総て移民の自由である。是れ珈琲耕地の第二年目に於ける移民の受く可き甘味の一つである。


南米聖保羅の家族移民(四)
在巴四 聖州子

彼等偽百姓の移民は、外国と云えば誰れにでも、一攫千金の果報が得られる者と夢見つつ、コーヒ耕地の仕事などは、日本の茶摘み位のもの、草刈と云っても田の草取りより楽であろう位で来るものだから、実際に会って見て、一寸方角がつかぬ位にマゴツくのが多い。之が真物(ほんもの)の百姓なら、方角は採り違えても、遣って見て体躯(からだ)に大した疲労も来ない、一家(いっか)力を集めて働けば、それそれ相当にコーヒの採集も出来るので、益(ますます)勢いも出る次第だ、そして真正の家族でなくて他人同士の寄合となると、彼奴(あいつ)が懶けりや俺だってと云う気になって一寸した所から不和が生じ自暴が出る。それに外国と云う処は、世間の制裁が殆どないから、珈琲園に燻って居るのが馬鹿々々しくなって自分一人町に出掛けて行って見ようという妄想を抱いて、夜逃げをする。実際第一回の移民も、第二回の移民も、此の手合が全数の半分以上を占めて居たのであるが、彼等は今も尚頼りなく他の日本人の家族に入れてもらって、珈琲耕地に止まって居る女や男の少からぬを見ても、明かであるが、中には一家揃うて逃げ出して町に来て四散したものの多い所から見ても、偽家族、偽百姓の夥しかったのが証せられる。烈々たる二月の炎天に珈琲樹の間の草を苅る仕事は、日本で田の草取のそれよりか骨が折れる。太陽の直射に黒奴(くろんぼ)の如く顔の色はやける、飲んでも又飲んでも水は直ぐ汗になる。成程是れは暑いなと、実際ウンザリする事のないでも無い。斯様の時珈琲樹の緑の蔭に這入って寝転ばうが、昼寝しようが草刈時には一向に御構いなしである。恰(あたか)も草を刈る時分は蜜柑の実がまだ青いが、日本にない珍らしいゴヤボとかマンガーとか或はマモンとか云う、それはそれは甘い果物の熟する時で、珈琲樹園の彼方此方に、一頭地を抜いて立て居るから、暑い日の盛には又とない草刈時の伴侶で、慰藉物である。
然し熱いものは冷め易い。熱い大陸の夜の涼しさと言っては、一度来て、寝て見たものでなけりゃ分るまい。カンカン照て居る太陽が広い広い珈琲原の彼方(あちら)に落ちると、東の空には、宵の星が二ツ三ツ瞬き出す、夕の光の微(かすか)に残る西の空、消え行く紅の雲を仰ぎつつ、珈琲山から家路に辿る時は、已にもう昼の酷熱は何処へやら、四辺(あたり)の自然はヒーヤリと冷えて居る。涼しい風が疲労を洗って呉れる。
そして此の草刈時期は所謂当地の降雨季で、二日毎にか、一日毎に、午後の日盛の空に夏の奇峰が漂うと瞬く間に大粒の雨が降ってくる。雨後の涼しさは、熱帯地でないと味われぬ爽快な心地である。
珈琲果採集の時期は、聖州も既に秋の空に入って、所謂乾燥期で、玉蜀黍の枯葉にそよぐ風も、蕭々として音ある頃、珈琲園の彼方此方、一団ずつの採集子が歌を謡って、すごき落す菓は、地に落ちて赤く、青く、又黒い、その間に和気藹々一家寄り集って毎日々々野天に仕事する楽しさ、又珈琲の葉蔭に団坐して、平和に弁当を開く愉快さ、誠に珈琲園は暢気である。第一回の移民にしても、第二回の移民にしても、真の百姓、真の家族で来たものは未だに珈琲園に留まって此(かく)の如く愉快に働いて居る、そして彼等の故国に対する送金は、町に逃げて来て賃金働きして居るものより遥に成績のよい所を見ても、珈琲耕地では金が残ることが知れる、三人家族の働き手でやれば、年に四百円を貯蓄するに困難でない。
耕地での蓄金を以て田舎に独立の農業に従事してるものがある。イツー郡の辺、十町余の土地を買占めて、馬鈴薯、玉葱、玉蜀黍、豆などの栽培をやって、既に多少の利益を見るに至った、福島県の佐伯国次郎氏は已に五十に近い人であるが、其の甥と共に、黒奴を使役して、日本式の農園の模範を示して居る。
又同県の青年連、高野(たかの)、宇佐見、岩本の血気のもの等は、聖市に於て家庭労働で得た一年余の貯蓄を携えて、聖州の奥の大珈琲地サンマルチニヨ耕地近きバリンニャの村に土地を占めて米田の開墾に馬と共に汗を流して居る。聖市を去ったのが、今年の五月中旬(明治四十四年)、最初の耕作地の事とて、思うように仕事もすすまなかったが、近日やっと四町歩余を耕やし終ったから、之に豆と玉蜀黍と餅粟とを蒔いて置いた。米を植付けるまでには今暫く時を待たなければならぬそうだ、何(いず)れ是れも近き将来に、稲穂の波がそよいで、睡むたそうな黒奴の眼を驚かす事だろう。
伯西児(ブラジル)は北米に較すれば道も遠い。人種と云っても白黒の混血種、理想も高からず。趣味も深からず。宗教、学術、美術の如き最初より未だ開けないので此の方面には、或は寂寞をも感ぜんが、五体に汗して百姓なり、或は日本品の商売なり、大工左官の職業なり、天涯万里の異境に一奮発して見たい方(かた)でもあったら、珈琲の花白く咲き出ずる南米も万更面白味のないでもなかろう、但し味噌汁吸わねば風邪くとか。生水飲んで腹を痛めるという方々には、或はチト道中も危険で御座ろうが、予は只赤毛布(あかゲット)連に向ってのみ好発展地じゃと申しておく。

(原文は旧字旧かな。新字新かなに改める。)

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