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赤津勇一の国会証言

第31回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号 昭和34年2月25日

(略)
○田口委員長 本日は、都合により、正規の委員会としないで、海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員打合会を開会することにいたします。
 本日は、主としてフィリピンのルバング島に今なお生存しておると伝えられております元日本兵の問題を中心に御説明を承わり、その帰還の促進をはかりたいと存じます。
 なお、この際委員各位に申し上げます。本日は、去る昭和二十六年に同島から引き揚げてこられました赤津勇君に特に御出席を願っておりますので、いずれ同君からも詳しく事情を承わりたいと思いますが、まず最初に、政府当局から、ルバング島の問題について、政府当局において今までの御調査の結果、判明しておるところを御説明願うことにいたします。
○河野政府委員 ルバング島に残留していると伝えられております元日本軍の軍人の救出の問題につきましては、政府といたしましても、厚生、外務両省共同いたしまして、また、現地の当局あるいは住民の御協力を得まして極力努力をして参ったところでございますが、その経過等につきまして簡単に御報告を申し上げたいと思います。
 最初に、残留に至った経過でございますが、昭和二十年の初めに、ミンドロ島及びルバング島の防衛のために臨時歩兵第一、第二中隊か配置をされたのでございます。そのうちルバング島につきましては、臨時歩兵第二中隊の第二小隊が配置をされた模様でございます。その小隊長は早川少尉でございますが、その後付近で遭難をいたしました船舶の将兵二十余名が合わさりまして、二十年の二月の末には七十名になった模様でございます。昭和二十年の三月にアメリカ軍がルバング島に上陸をして参りまして、その結果小隊長は戦死をされました。その後、小隊はルバング島の山岳部に入って終戦まで戦闘を継続し、その間約三十名の戦死者を出した模様でございます。終戦直後、米軍の投降勧告によりまして、九名が投降いたしました。翌二十一年二月に行われました日米両軍による投降工作によりまして、三十一名が投降いたしました。結局、小野田少尉、嶋田伍長、小塚一等兵、赤津一等兵の四名が残留をいたしたことになるわけであります。そのうち、赤津さんは二十六年に帰って参りました。嶋田さんは二十九年に死亡をされておる次第でございます。こういうふうなことで、お二人の方がずっと現在まで残っておるのではないだろうかというふうに言われておる次第でございますが、二十六年に一人がお帰りになったわけでございまして、その報告によりまして今のような残留者があるというふうなことを聞きまして、この救出の問題が起って参った次第でございます。
 当時、まず第一に、厚生省といたしましてはGHQに対しまして、文書でこれらの人たちの救出送還を懇請いたしますとともに、ビラあるいは家族の手紙等も差し出し、また当人らの留守家族、郷党の県知事等からも、それぞれ助命救出の懇請を比島関係にあてていたしたような次第でございます。こういうふうにいたしまして、二十七年の初めから夏にかけまして、地上及び空中から三回にわたって投降の勧告ビラをまいたわけでございます。しかし、ついに何らの反応を得られないで終ってしまったわけでございます。
 このように工作が十分成果をおさめられませんでしたので、厚生省といたしましても、職員及び当人の肉親の方に現地に行っていただいて、直接呼びかける工作をすることが適当である、かように考えまして、外務省を通じましてフィリピン側に申し入れをいたしたのでございます。二十八年ごろ一時承認が得られそうであったのでありますが、ちょうど当時フィリピンの状況は、大統領選挙の年でもございまして、政情が不安定であったために、一時断わられたようなことがございました。しかし翌年の二十九年に至りまして、フィリピン側も、こちらから出向いていくことについて了承をされましたので、同年の五月から六月にかけまして約二週間、厚生省の職員一人と小野田さんのお兄さん、それから小塚さんの弟さんの三人がルバング島に参りまして、山中をくまなく踏破して、相当徹底して呼びかけを行なったのでございます。また、空からもあわせて呼びかけを行なったのでございますが、そのときも、ついに何らの反応を得られないで終ってしまったわけでございます。
 その後、いろいろ外務省にもお願いをしておったわけでございましたが、現地当局との話し合いも、十分円滑にいかなかった点もございまして、一時ちょっと中絶の形になった期間がございましたが、ちょうど昨年の一、二月にかけまして、フィリピンの遺骨収集のために派遣団を差し出したのでございます。ちょうどこの機会に、さらに工作を行うことにいたしたのでございます。そのやり方は、二月の初めから三月の末にかけまして、三回にわたって飛行機からビラその他のものを投下いたしたのであります。ビラにつきましては、今すぐ投降しろというふうには言わないけれども、もし生きておるなら合図だけでもしてくれ、合図があれば二人の方の肉親たちを会いにいかせるようにしたい、合図をしてくれ、こういうふうな趣旨のビラをまいたわけでございます。ビラと一緒にまた手紙や写真、あるいは郵里(注2)の食べもの等、こういったものも一緒に投下をいたしたのでございますが、ついに何らの反応も得られなかったのでございます。また、飛行機による今申し上げましたような物件の投下とあわせまして、派遣団員あるいは大使館の人たちも、土民の案内で、山中に入って呼びかけをしていただいたわけでございますが、これも反応を得られないで終った。そこでやむを得ず数カ所に立て札を立てまして、また現地の官民の方にも、また大使館の方にも今後の努力をお願いいたしまして、帰って参ったような次第でございます。
 また、最近新聞紙上ですでに御承知のように、ルバング島におきまして二件ほどの殺傷事件がございました。これは、日本の元の兵隊さんがやったんだという証拠はないわけでありますが、そういうふうなことも考えられないではないというふうなことで、フィリッピン側も現地に調査に行きたい、ついては、この救出工作について日本側も一つ努力してもらいたいというふうなお話がございまして、ビラ等もこちらから送りまして、大使館からも二人ほどついて現地に行って、いろいろ御努力を願っておるわけであります。第一回の工作は、二月の初めに終りまして、むなしく帰ってきておるわけでありますが、第二回の工作をただいま実施いたしておるように承知いたしております。現地からの報告によりますと、まだ何らの手がかりも得ていないというふうなことになっておりまして、二回目の工作の際には、連絡箱も十個ほど用意いたしまして、何らかの連絡を得られるようにと配慮いたしておる次第であります。
 大体今までの概略を申し上げた次第であります。
○田口委員長 それでは、引き続きまして赤津さんから、ルバング島におられました当時の事情及び同島から引き揚げてこられたその間の事情について、御説明を承わることにいたします。
 赤津さんには、御多忙のところ御出席をわずらわしまして、まことにありがとうございました。
 それではお話を願います。
○赤津勇君(注1) 現在ルバング島に残っておると伝えられます小野田元少尉と、小塚元一等兵の残留されるに至りました事情は、ただいま厚生省の方からのお話で大体おわかりになったと思いますが、私の同島より引き揚げて参りました経過並びに山中における日常生活の状態など、気のつくままに申し上げまして、何らかの御参考になれば幸いだと存じます。なお、どのようにすれば二人の方を救出できるかということにつきましては、僣越ながら私の意見を述べさしていただきます。
 私がルバング島より引き揚げて参りましたその間の事情は、昭和二十五年ごろでございますか、山中において行動中、仲間の者とはぐれてしまいました。しいて探せば探せないこともないのでしょうけれども、大体その当時の私たちの行動というものが、日中はほとんど動けないので、もっぱら夜間にかけて行動しておりました関係上、はぐれますとめぐり会うことがなかなか困難でございました。それにまた、私は兵隊であり、小野田少尉がおる、田中伍長がおるというわけで、何となく気分的に苦しいこともありましたので、どうせあすをも知れない命をかかえて、あまり窮屈なこともやりたくないと思いまして、しいて探しもしませんでした。そのような状態で、八カ月か九カ月くらいでしたか、私、単独で行動しておりました。それで、たしか二十五年の四月ごろだと思うのでありますが、私が高熱を出しまして、身動きができない状態になりました。一週間ほど食べることもできず、しまいには腰も立たなくなってしまいまして、目までかすんでしまうような有様で、これはもういかぬとそのとき一人で覚悟いたしました。しかしそのときは、天運と申しましょうか、無事に回復することができました。そのときのことが忘れられなくて、山中において病なりあるいは敵襲によって倒れてしまうよりも、一度里におりてみよう。よしんば、里におりて敵の手によって射殺されてももともとである。あるいは万一助け出されないこともないと思いまして、自分とすれば大決心のもとに山をおりたわけであります。ただ向うの警官なり住民なりが快く私のことを迎えてくれましたので、ほんとうにほっといたしました。間もなく同島にフィリピン軍の兵隊が六名私を迎えに参りました。それでまだ二人も浅っているので、それを探そうというわけで、私が先頭に立ちまして山の中を三日ほど歩きました。しかしそれらしい姿は全然見つけることができなかったのでありますが、その見つけられなかった理由については、比島軍の兵隊さんが、私が思うように徹底した行動をとってくれなかったこと、ほんとうの命令でもって、仕方なく山をぐるっと回っただけのことでありまして、私の目ざす地点には自分からは入っていく気はないし、といってまた、私を一人で出してくれませんでしたので、自分とすれば、さしあたりどうにもしようがなくて、涙をのんで山元を引き揚げて参りました。それでしばらくマニラにおりまして、適当の時期に、モンティンルパで刑を満了されました方々とともに、昭和二十六年三月の二十八日に神戸の港に帰って参りました。それ以来、私は直ちに残る三名の御家族の方に御連絡をとりまして、ぜひともこの三人を無事助け出したいと思いまして、自分とすればできるだけのことをして参りました。
 私たちと小野田少尉たちがまだ一緒に山中におりました時分の生活は、ただ三度々々の食事の心配をすることが精一ぱいでございまして、恥かしながら軍人らしい行動もできなかったのであります。しいて自分の心を慰めるといいますか、小野田少尉殿も言っておられましたのですが、たとい何ができなくても、とにかくわれわれがここにいる限り、やはり米軍も多少この島に残らなければならない、それだけでも一応われわれの目的は達するのだと言って、自分から自分を慰めておったようでございます。それで、われわれはルバング島のネズミだなんて、よく自嘲しておりました。昼間は敵の監視の目をおそれて、とにかく山中にもぐりまして、じっとしております。五日ないし一週間目ぐらいことに、山をおりましてはバナナなりヤシなりを、また時には、住民の飼っております牛や馬などを、所持しております銃によって射とめまして、そのようなものを食糧としておりまして、その食糧のあるうちはじっと動かない、なくなるとまたとりにいく。それも、一カ所ばかりにおりますと自然目につきますものですから、絶えずそのことに注意しまして、場所を変えて今度は西へ、今度は南へというふうに、転々としておりました。別にきまった場所というものをこしらえませんで、俗に言う放浪生活、日が暮れればそこで泊る、日中は十分な話もできないほど回りの空気に気を配りまして、その気苦労たるや、おそらく皆様方には御想像もできないのじゃないかと思うのでございます。
 そのようなわけでありますから、夕方になりまして、敵軍なりあるいは向うの住民なりが山を引き揚げたと思われる時分になると、ほっとしてぐったりとしてしまいます。それからが私たちの天下でありまして、食糧を探しに行くときは、そのころからぼつぼつ行動を起します。そして一晩じゅうかかって食糧を集めます。牛や馬を射とめる場合には、やはり夜ですけれども、もっぱら月あかりを利用して倒しますが、やみ夜の鉄砲でなかなか当らないのであります。しまいには要領がわかりまして、とにかくでかいものであるし、おなかなど撃たずに足を撃て……。
○山口(シ)委員 委員長にお願いいたしますが、ちょっと声が小さくて聞えないのですが……。
○田口委員長 もうちょっと大きな声で願います。
○赤津勇君 当時、弾薬はまだ二、三千発持っておりましたが、とにかくこれきりしかなく、あともう補充はつかないのだから大事に使えというわけで、たとえばその牛を撃つにしても極力有効な使い方をいたしまして、牛が一発で倒れればいいのですが、なかなかそのようなことがなくて、五発、六発と使うようなことが度々あるのでございます。ですから、ただいま申しましたように、最後には要領を覚えまして、足を撃ってまず動けなくする、そこを今度剣で突く、それから今度一晩がかりでもって、帯剣を利用いたしまして一生懸命料理をして、とにかく、一頭全部持ってこられませんから、持てるだけの肉を切り取りまして、あとはそのままにして山に引き揚げたのであります。
 御承知のように大へん暑いものですから、なま肉はすぐに腐ってしまいますので、その対策といたしまして、その肉を一晩じゅうかかって燻製にするのでございます。山奥深く入りまして、とにかく下から火の見えないところにもぐりまして、一晩じゅう交代で火の見張りをしながら燻製を作ります。ちょうど肉のカツオぶしのような格好になって、ほし上ります。もう絶対に腐りません。これが一番の携帯食糧であって、かさばらなくて一番ためになったのでございます。とにかく塩というものが全然ありませんでしたものですから、この肉によって得る塩分というものを非常に重要視しておりまして、ヤシ、バナナよりもむしろ肉類に重きを置くようにいたしました。それでもやはり塩分は足りないとみえまして、とにかく体がだるくて仕方がなく、足が上らなくなってしまうのであります。それで年に一度くらい、なるたけ安全と思われる地点から海岸へ出ます。そこで海水をくんで参りまして、やはり人目につかないところで、今度鉄帽を三つくらい並べまして、海水を一晩がかりで煮詰めます。一晩煮詰めまして大体二合ぐらい程度の塩がとれますが、それを今度は、ほんとうの薬のようにして少しずつなめております。
 衣服といっても、最初山に入るときに着ていった軍服一着で、あとはありませんでしたし、そこへもって参りまして山の中で行動しております関係上、非常にいたむのでありまして、バラにひっかかって破れたり、木の枝にちょっとひっかかるので破れたりいたしまして、その補修にはほんとうに苦心いたしました。補修材料がありませんものですから、その軍服のそでをちぎり、ポケットをはがし、二重になっているえりをはがし、しまいにはえりをとってしまい、ズボンを下の方からだんだんと短かく切ってきて、私が山から出て参りましたときには、そでなしの軍服に半ズボンという格好で、全く人に見られたくない格好でございました。またその補修するにつきまして、針なんですが、これは針金を拾ってきまして、帯剣の先、ナイフの先なりで、一日かかってこつこつと穴をあけましてこしらえました。糸は全部木の皮でございます。また、その木の皮を利用しましてわらじを作りました。また、なわをよりまして網の袋をこしらえました。
 それから火を起す場合でありますが、レンズは持っておりましたが、日中は火がたけません。従って、レンズがあっても火を得ることができません。そこで、住民が竹をこすり合せて火を起すということを思い出しまして、竹で火を起す工夫をいたしました。幸い火薬は持っておりましたものですから、その火薬を利用いたしまして、たやすく火が得られるようになりました。しまいには、さほど火というものに対しては、苦痛を感じなくなったのでございます。
 食糧を探しに出る晩はいいといたしまして、その必要のない夜はほんとうに心をくつろげまして、お互いの身の上話なり、家庭の話なり、友だちの話、自分の記憶に残っているうれしかったこと、悲しかったこと、とにかくありとあらゆることを話し合いました。それこそほんとうに大きな声を出して話しても、夜だけは安全なのです。といって、同じ人々ですから、毎日々々話していると、しまいには話の種も尽きて参ります。自然話の蒸し返しです。同じことを何べんとなく聞かされました。ですから、お互いの家庭の事情なり何なりは、ほんとうによくわかってしまいました。
 なお、皆さんから、住居はどのようにしておったかということをよく聞かれるのでございますが、前にも申し述べましたように、原則としてはそのようなものは設けません。敵に発見されるおそれかあるからでございます。しかし、大体四月から十月ごろまでの間は向うは雨季に当りまして、この間はどうしても住居なしではしのぎにくい状態になりますので、この間だけは、やむを得ず特に安全と思われる地点に場所を設けまして、ちょうど内地の豚小屋程度の小屋を作りまして、屋根は木の葉っば、特にバナナの葉っば、ヤシの葉っぱなんかが有効でありますが、そのようなものを載せまして、曲りなりにも住居住まいをいたします。それとても、いつ敵に発見されないとも限りませんので、状況がよければ半月でも一カ月でも一個所にとどまっておりますが、少し様子がおかしいとなりますと、家をこしらえたすぐあくる日にでも、別の地点に移動することがありました。とにかく一番苦しかったのは食糧、特に塩のことでございまして、塩というもののいかに貴重であるかということを私はつくづく体験して参りました。
 それから非常にアリが多いのでございます。また蚊も相当多いのでありまして、そのために寝られない夜がたびたびありました。そのような場合、できるだけ風通しのいい山の稜線あたりに出まして休みますと、少し涼しいですけれども、割としのぎよく夜を過ごすことができるのであります。雨とアリと蚊、これが一番の敵です。私がそれをもじりまして、「あめりかにはかなわぬ」と言って大笑いしたことがありますが、日常生活の状態というものは、大体そのような単調な生活を毎日々々繰り返しておりました。
 最後に、救出の方法でございますが、私の経験から割り出して考えますると、やはりこのお二人に最も近い方、肉親なり友人なり、姿を見ればもちろん、声を聞いてもすぐわかるくらいの、そういう親しい方に現地に行ってもらうのが一番いいのではないかと思うのでございます。厚生省の方でも、盛んに説得工作としてビラなり新聞なりまいておられますが、それではおそらくこちらの希望するような結果は、絶対に生じてこないものと確信いたします。
 こういうことがありました。まだ山中に大ぜいおりまして、第二回の投降勧告によって三十一名の方が下山いたしましたが、そのときの事情を私が帰国後聞いたところによりますと、やはりみんな、そのときの勧告隊のあれを信用しなくて逃げ回っておったのでございます。それが何かのはずみでもって、一人少しぼうっとしておる者がおりまして、それがつかまってしまいました。それでその人の口から、ずるずるっとイモづる式にあがったような形跡が見られました。その当時小野田少尉、嶋田伍長、小塚氏、私の四人のグループは、他のグループに絶対に隠れ家を知らせませんでしたので連絡の方法がなかった、またその当時は、そういうようにして山の中がちょっとうるさかったものですから、隠れ家をみなと別行動で転々としておりましたものですから、イモづる方式にほかの仲間はあがりましたが、私たちは逃げ切ることができたのです。初めのうちは、名前の知れない日本人らしい人の筆跡で、投降を勧告する意味のビラを方々で見たのです。そうこうするうちに、今度は自分たちの仲間の手になる、やはりそのような手紙をあちこちに見るようになりました。おや、これはつかまってしまったぞ。残るはお前たちだけで、とにかく今度引き揚げてしまうとあといつ来るかわからない、南海の孤島に君たちだけ残していくのは忍びがたいので、おれたちも一緒になって君らのことを探しているのだから、どこどこの場所まで早くおりてこいという手紙を見るようになりまして、その三十一名の下山を知ったような次第でございます。大体そのときの捜索隊が一カ月くらい山の中におったように聞いておりますが、その仲間の置き手紙を見まして、最初はむげに、これは敵の謀略だ、つかまった者は帰国どころか、どこかとんでもないところに持っていかれて、ひどいことをされておるのではないかくらいに話し合っておったのですが、しかし、果してそう言っていた言葉が、自分の本音であったかどうかははなはだ疑わしいと思うのでございます。というのは、小野田氏は少尉でありました。嶋田氏は伍長でありました。そういう手前もありますものですから、一応体面上そういう強がりを言っていたのではないかと思われる節もあるのです。
 ある晩、小野田少尉殿がこう言うたのであります。とにかくどこどこの地点に、秋田中尉と申しましたか、その方が待っておる。ぜひ来いということを前々から聞いておりましたが、その晩小野田少尉が、自分がついていてお前たちにこういう不自由な思いをさせることは実に忍びない、一つおれが犠牲になったつもりでそこを尋ねて、果してその工作が真実であるか、あるいは敵の謀略であるかを確かめてくる。お前たちはその付近で待っていよ。もし真実の場合にはこうだ、それがデマの場合にはこうだと言って、その合図まできめてやってみると言ったのでございますが、すでになくなりました嶋田伍長が、当時大へんこっくりさんとかいう一つの占いみたいなものにこっておりまして――そればかりではないでしょうが、階級は伍長でありまして一番年長者でありましたので、一応小野田少尉殿も、その人の言うことを一目置いて聞いておったのでありますが、その人が猛烈に隊長殿のそういう行動をとめました。だいぶ口論いたしました。しかし結局、その場はそのままになってしまいました。後日になって全部が引き揚げてしまってからですが、小野田少尉殿がぽつりと、おれはとうとう出る機会を失ったということを感慨深げに言ったのを、私は今でもはっきりと覚えておるのであります。ですから当時敵の謀略だ、どうだこうだと口では言っておりましたものの、果してその真実はどのようであったかということは、大体想像はつくのでございます。
 そこで今後の救出工作でございますが、そこをねらって手を打たなければいけないと私は思うのです。やはり日本人でなければ信用いたしません。それもあまり派手な行動になりますと、むしろ逆にとってしまいます。小野田少尉という方は、将校でありますが、普通の将校ではないのです。特殊教育を受けて、現地のルバング島の遊撃戦の指導者として参った方でありまして、特に謀略方面には大へんな知識を持っておりましたので、敵のなすこと、することをすべて逆の立場から判断いたしまして、ああ、敵がこうやったからこれはこうなんだ、こういうふうに来たからこれはこうだ、絶対にまともにとったことはございませんでした。しかし、そうは言うものの、ほんとうに腹を割って考えれば、やはり内地のことは恋しいのです。親兄弟のことをよく言っておりました。友だちのことなんかもよく話しておりました。ですから、現地でよくそういううわさに上ったような方々に御足労願いまして、現地に行って、とにかく山をおりてこいと言うよりも、こちらから山に乗り込んで向うが近寄ってくるのを待つ、少し気長い話になりますが、これ以外にはないと思います。追っかければ必ず逃げます。それですから、そのためにいろいろと予算の面もあるでしょう、予算が多ければ多いほどこれはけっこうなんですが、やはりある程度制限があると思いますので、とにかく十人で二十日滞在するところならば、五人で四十日現地にとどまる、私はそのようにして予算を有効に使っていきたいと思うのです。とにかく、向うで現に生活しておられる小野田氏なり、小塚氏なりと同じような境遇に自分からなり切って、捜索なり、説得なりに当らなければいけないと思います。前にも何度か捜索いたしまして失敗しておりますが、やはり第一の原因は、小野田さんの兄さんが行きました場合には、時期的にも悪かったのでありますが、要するに、現地の地理に詳しい人がいなかったということが一番の弱点であったと思います。とにかく向うの住民は、確かに山は詳しいでしょうが、決して山奥に入りません。また向うの住民が、要領よくここが一番いそうなところだといって適当に山を歩かせたのを、こちらから行った人はまた何にもわからないものですから、ああそうかといってそれを信用して、ただその辺を、われわれが考えて、俗に言う山の銀座通りを歩かされても、自分としてはほんとうに山奥深く入ったと勘違いして戻っております。ですから、とにかく向うの住民の直接の援助はない方がいいと思います。できれば日本人だけで、一カ月なり二カ月なり気長に待つ、私はそれ以外に方法はないと思います。
 どうも長々と失礼いたしました。
○田口委員長 次に、外務省が最近マニラ大使館を通じてルバング島を御調査になったということを聞いておるのでございますが、現地からの報告か何かありますれば、この際御報告を願いたい。
○有田説明員 最近マニラから参りました報告は、電報だけでありまして、詳しい手紙によりまする報告は、おそらく来週の月曜日か火曜日の外交行のうで送られると思いますので、まだ着いておりません。ここにございます唯一の電報報告は、フィリピンの部隊とともに行動いたしまして、十四日までルバング島におりましたフィリピン大使館の河野理事官の報告のあらましでございます。それによりますと、最近の射殺事件は、前後の事情から見て、あるいは小野田及び小塚の両氏の行動ではないかと考えられるということでございまして、まだはっきり両氏の行動であるということは裏づけられておりません。それで、結局まだ両氏が存在しておるという推定のもとに、今後の工作を強力に進めなければならないであろうという結論に達しております。
 それから一番関心事は、最近の新聞報道によりますと、軍から射殺命令が出たのではないかということでございますが、これにつきましては大使館の方から何の報告もございませんので、今特にその点について確認を求める電報を打っております。しかし河野理事官が参りましたのは、フィリピン軍の要請によりまして、救う場合に無事に救うというフィリピン側の考慮から同行を求められたものであるということ、並びにフィリピン軍の方からも住民に対しましてその協力を求め、かつ両名が投降して参ります場合に危害を加えないようにという警告を発しているということでございますので、射殺命令といったような最悪の事態は、現在のところは考えられないのではないかという判断をいたしております。
 これが最近得ました報告のあらましであります。
○田口委員長 この際、政府及び赤津さんに質疑があればこれを許します。茜ケ久保委員。
○茜ケ久保委員 赤津さんにちょっとお尋ねいたします。お聞きしていますと、大体わかったのでありますが、問題は、残っているお二人がまだ日本の敗戦ということを知らずに残っているのか、しかも自分ががんばっていることが、何かアメリカに対して、先ほどおっしゃったように自分たちががんばっておればアメリカ兵も残るんだということをおっしゃったようですが、そういった意味で、あくまでも抵抗するという気持でおられるのか。さらに、敗戦は知っていらっしゃるが、ただ自分たちが出ていくと殺されるか、あるいは何か非常に危害を加えられる、殺されるならこのようにしてがんばっておった方がいいということであるのか、その間の事情がよくわからないのですが、この点を一つ率直にお答え願いたいと思います。
○赤津勇君 その点でございますが、小野田少尉殿がゲリラ戦の指導者としてルバング島に渡ってきましたときに、最初にそんなことを言っておりました。マニラの司令部からの命令だといいまして、とにかく絶対に玉砕してはいかぬ、必ず日本軍は勝つ、であるから、二十年でも三十年でも、力の続く限り抵抗せよということを言っておられましたが、果して現在そのような心境に、同じような状態でいるとは考えられません。といいますのは、たび重なる宣伝工作によりまして、大体終戦ということを認識しているのではないかという事実があるのでございます。嶋田班長殿が戦死なされました、そのとき、遺品の中に宣伝工作に使用いたしましたビラだとか、写真などを所持しておったわけでありますから、必ずしも終戦という事実を知らないはずはないと思っております。自分たちもさんざん、相当に原住民の迷惑になるようなことをして参りましたし、また人なども何人か殺しております。そういう過去がありますので、やはり良心的に出にくい、そういう状態ではないかと思うのであります。まして、小野田少尉は隊長という面目もありますが、かつてシナにおりました当時、かなり敵の捕虜を残酷に扱ったようなことが頭に残っておるらしいのでありまして、もし自分たちがつかまればやはりそのような待遇を受けるのじゃないか、その辺のところがいろいろと重なりまして、何となく出にくい。私も山をおりますときには、そのことにつきましてはずいぶん考えましたが、結局、何といいますか、たといこれから何年かかっても、五十になってもいい、六十になってもいい、とにかく一度内地に帰って親の顔が見たい、ただその一念で、あとさきのことをかまわず夢中でもって山をおりました。幸い、短い期間のうちに無事内地に帰還いたしまして、ほんとうにうれしく思っておるのでございますが、要するに、現在、そういう気持が多少でもわいてこない限り、ちょっとむずかしいのではないか。それにはやはりできるだけ数多くの工作をする、そうしてその友人なり、肉親なりを長く現地にとどめておきまして、郷愁の念にからさせるということが一番いいのじゃないかと思うのです。
○茜ケ久保委員 わかりました。あと二点だけお伺いしたい。
 あなたが、さっき約千発くらいの弾薬を持っておるとおっしゃったのですが、あなたがお帰りになってでも、もう八年たっておりますね。現在、あなたの想定では、どのくらい弾薬を持っておるようであるか。それから銃などは、依然としてまだ使っておるのかどうかといったようなこと。
 それからもう一つは、あなたの最後の救出に対する御意見を承わって、私どもも全くあなたのおっしゃる通りだと思う。今までも非常な御苦労をしてもらったと思うのですが、おそらくマイクを持っていったり、ビラをまいたりしても、相手は逃げる一方だと思うのです。そこで残された方法は、あなたがおっしゃるように、ここに見えていらっしゃるお父さんなり弟さんが直接いらっしゃる以外にないと思うのですが、その場合一番大事なことは、現地人にも期待できなければ、これはあなた自身が行ってやることが一番いいのですよ。あなたが一緒に行って、くまなく、御苦労でもお探し願うと一番いいのであります。従って、もし国の方でお二人の近親の方を向うに派遣して、あなたのおっしゃるように持久戦で探すということが可能な場合に、あなた御自身が一緒に行って、大へん御苦労であるけれども、かつての戦友の救出に御協力願うことができるかどうか、この二点について私はお聞きしたいと思うのです。
○赤津勇君 銃は現在も使っていると思います。油は、ヤシの実から油をとりましてこれを使いまして、銃だけはまめに手入れをしておりますから、その点御心配ないと思います。弾薬は、別に千発か二千発くらい当時ありましたが、とにかく当時は、もうあと補充がないというので大事にいたしまして、月に一度か二度、牛、馬をとる。それに、あと火を起すときに不発弾を使いますが、そんなときに火薬を利用する。よしんば敵の住民なんかと遭遇するようなことがありましても、敵方からこちらの所在が発見されない限り、こちらは身をひそめてやり過ごして、弾薬の浪費を防いで参りました。向うからこちらの姿を発見されますと、すぐ今度は軍の方に通報されることを心配いたしまして、とにかく発砲はいたしました。といって、そう山で住民と会うということは、年に何度もないのです。ですから、私と一緒におります当座でしたならば、弾薬というものはそう要らなかった。せいぜい月に五発か十発です。ですから一年にしても、六十なり百発なりで十分事足りました。もっとも数だけはそれだけありましても、何せ湿気の多いところでございますから、保存中にずいぶん湿気を食いまして不発弾が出て参りますので、その員数がありましても、果してほんとうの有効弾というものがどれだけあったかはわかりません。従いまして、その後もう七、八年たっておりますから、弾薬の方としてもそうよけいあるはと考えられません。もっとも、その千発なり二千発なりの弾薬ですけれども、これも山を歩いているうちに仲間の者がそこらに置いたやつを拾い集めたものが大部分でありまして、その後そういうようなものを手に入れておれば、またこれは別でございます。
 それから最後の点でございますが、私が道案内に立って現地を捜索するのが一番いい、これはどなたもそうおっしゃいます。私もそう信じております。しかしその点は、以前はいざ知らず、現在では妻子がありますので、ここで即答はしかねますが、私はできる限り現地に飛んで探す決心でおります。
○逢澤委員 関連して。大へんの御苦労、感謝しております。ただいま私のお尋ねしようと思う同じことをお尋ねになったのだが、捜査について、あなたが牛や馬をときどき食糧のためにとりに出た、これにはどのくらいの時間がかかりましたか。私は、大体山の大きさというものが知りたいと思うのだが、それには時間がどれくらいかかったか。
○赤津勇君 それは、島はそう大きくありませんです。その牛や馬といいますのは、現地人が飼っておりますもので、これを放し飼いにしてあるので、その牛が山に遊びに来ます。それをちょうだいするわけでございます。
○逢澤委員 もう一つお願いします。あなたにぜひ案内人として行っていただくのが一番有効適切だと思うのだが、これは、一つには国の予算の面と、あるいは有志からそういうような資金を集めるというような方法もあるでしょう。それにしても、行っていただくということが一番のなにになると思いますが、あなた方の今までのいろいろの御苦労の経験からいって、人里離れて一日くらいな行程のところで今住居を転々としておるとか、あるいは二日ぐらいな行程のところに転々としておるとか、そういうようなことの想像がつきますか。いわゆる部落か人家のあるところから、どのくらいな時間でということの想像がつきますか。
○赤津勇君 とにかく、島全体といたしましても大して広い島ではありませんで、時間はそうかかりません。どんな遠くても、半日もあればおそらくその地点に達することができると思います。
○山下(春)委員 きょう赤津さんの御説明で、私どもも、何か島の中にいて話を聞くほど非常によくわかりまして、わかるにつれても、一体どんな苦労をしておられるかということは想像に余るものがあります。先ほど外務省のお話では、射殺事件があったが、それは諸般の情勢から推して小野田さんと小塚さんではあるまいかということは、事件そのものは悲しいことですけれども、非常な望みを私どもに与えてくれた報告でございました。これがそうであることを心から祈っておるのであります。そこで本委員会としては、過去十年を振り返ってみますと、こういう問題はどんな困難な問題でも取り組みまして、これを何とか解決していこうということが、本委員会のみんなの心からなる念願であり、また努力してきたのであります。そこでこのルバング島の問題も、何回かこの委員会の議題にいたしたのでありますが、今日ほど詳細に、そのときの情勢を聞くことが実はできなかったのでございますけれども、聞いてみまして、そうして私どもの心からそうしなければならないと信じられることは、この二人の方々を救い出すということであります。これは非常な大きな、世界に対する人権宣言のようなものでございまして、どんな努力をしても救い出さなければならないと思います。そこで救い出す方法として、赤津さんが最後に言われたことは――実はきのう、小野田さん、小塚さんをどうかして救い出したいという肉親の方や同級生の方々の異常な熱意に私も感激をいたしたのでありますが、その際にも、私、実は赤津さんと同じようなことを申し上げた。これは先ほど厚生省から報告がありました通り、きょうまで政府の手としてあらゆる手段を講じてみたのですが、今あなたがお述べになるような心境で、しかもあなたがお別れになってからもう八年、もっと心境は変則的になっていると思わなければなりません。一般に、私どもがここで考えておる常識をもって何か考えましても、それは御本人たちには全然通用しない心境だと思うのです。そこであなたが結論的におっしゃった、多くの人を必要とするよりも、長期にその中に入って見た目から見ますれば、向うにいる方は、あなたがおいでになったときでさえ、すでにそでなしにショート・パンツだったということでありますから、もうきれらしいものはないかもしれませんね。あるいは木の皮の繊維等で作った手製のものをまとっておられるか、あるいはそこらでどうにかして手に入ったものか、いずれにしても相当怪異な様相をしておられると思わなければなりません。そこで、ちゃんとした洋服を着て、ちゃんとした格好をして、めがねなど携えてちょこちょこ入っていけば、非常に感情にぴたりとこない姿になりますから、相当長期に山の中にその方々も待機して、同じような姿になったときに出会えば非常に感じがよいということも考えられますので、私は、実はきのう同級生とか御親戚というお方々に、そういう努力に耐えてもこれは探し出さねばなりませんよと申し上げたのですが、皆さんかたい御決意の様子でございまして、私も、その友を思い、肉親を思う気持に全く打たれたのであります。しかしこれは、友を思い、肉親を思うというだけではないのです。これを、もし私どもが今日よう救い出さないとなると、三輪さんがパンフレットに書いておられるごとく、用事のある間は命を軽んじてこれを使い、用事がなくなればもう捨てて、助けないんだということの印象を与えてはいけないと私どもは思うのです。これからの日本の青年たちにもそういう感じを与えてはいけないとしみじみ思いますので、この委員会も政府もあらゆる努力をして、このことに御協力をいたしてどうしても助け出したい、こう思っております。私は、これを助け出すという方法は、後刻いろいろと厚生省等ともお話合いをして、本委員会の本日の決議のようなものをもってしても、一番最善と考えられる救出の方法を実行するということを、ぜひとも決定してもらいたいと思います。
 そこで今度は外務省へお尋ねをし、外務省でそういう方法を講じてもらいたいと思いますが、そのときに非常に心配になるのは、今赤津さんが仰せられるように、小野田さんは非常な違った環境で十余年生きておられるのです。その間に牛をちょうだいしたにしても、馬をちょうだいしたにしても、戦争のまんまの状態で今日まで来ていますから、日がたてばたつほど、いろいろなことが積み重なるのです。けれども、まだ相当なインテリとしての神経が麻痺しておるわけではないのですから、その罪過というもので、出ていっても非常な重い処分を受けるのではないか、このことが心配であることも、一つは名乗り出られないことだと思うのです。そこで外務省では、フィリピンでこの問題を処理するようなことなく、あくまで日本に帰していただいて、何かその責めを負わなければならないことが小野田さんにあるとするならば、日本の国民の全部がこの方をお守りしながら、償うべきものは償うといたしましても、比国においてそういうことが行われるのではないかということがわれわれも心配なんです。そこで、そういうことがなされるような外交関係にあるかどうか。なされることであれば、それは絶対に本委員会としては困りますので、とにかくその問題はまるまる日本へ渡してもらわなければならないのですが、今外務省でいろいろ苦労していただいておる段階においては、どんなような状況でございましょうか。
○有田説明員 お答えいたします。フィリピン側が裁判にかけるかどうかというようなことは、まだ御本人たちが出てきておりませんし、また初めてのケースでもございますので、具体的に申し上げることはできないと思います。しかしながら、この前の山本中尉の場合も、それから今回もそうでございますが、出てきた場合に、絶対穏便の措置をもって無事に日本側に渡してくれるようにということを言っておりまして、幸い山本中尉の場合は無事渡されたわけであります。今度も、こちらからフィリピン大使館の方に連絡をいたします場合には、その点はそのつど念を押してフィリピン側と折衝するように言っておりますので、御了承を願いたいと思います。
○山下(春)委員 その問題につきまして、現段階においては外務省はそれしかできないと思いますが、その問題につきましては、過去にもフィリピンにおきましてはわれわれのこいねがうような方法で処理してくれておりますから、今度もむろんそうであろうと思いますが、特に外務省に、そういうことのないように努力することをお願いをしておきます。巷間伝えられる射殺事件等があったために、見つけたら射殺してもよろしいというような指令が出たとか出ないとか、あるいは山狩をする等のことを考えているとかどうとか、先ほどの御報告でその点は特段に今取り上げて言うほどのことがないように了承いたしましたが、なおその点を外務省では十分に責任を持ってフィリピンと御折衝願って、それらのことのないように十分なお手当をいただきたいということを申し上げて、それ以上重ねて聞くことはございません。それは外務省にぜひお願いをいたしておきます。
 それから、赤津さんに重ねて聞く必要はございませんが、今同僚議員からも御質問がありましたが、赤津さんが道案内をすることが一番適当だ、そうして自分もそうしたいと決意をいたしておった、しかし今は妻子があるので今即答できないというのですが、本委員会としては、そんなことをあなたにお願いするということはあまりにも、残酷で、できません。ここであなたが、自分がそれを引き受けないと、何か委員会の人たちに申しわけのないような気持にきょうからおなりになる必要はありません。あなたは私のせがれくらいの年でしょうが、私がかりに親の立場になれば、小野田さんを助けなければいけない、小塚さんを助けなければいけない、さりとて、あれだけの苦労をしたところへもう一度道案内に行っていただくということ、一カ月か、三カ月か、半年か、目的を達成するまでは相当長期の滞在をする必要があると思われるところへあなたに行っていただくということ、そんな残酷な要求はよういたしません。従いまして、本委員会に出てもらって非常に得るところがあった上に、今晩からあなたを、あの委員会がどうしても赤津さんに行って下さいというようなことをきめるのではないかというような、御不安な生活をされることにこの委員会がもし追い込んだとするならば、それは全く私どもはそういうことを希望いたしておらない。ありがたいことですけれども、希望いたしておりません。同じように、ルバング島を御承知の方で健康で、小さな島だからすみからすみまで、どんな苦労をしても、どうしても自分が行って探し出すという方が、私どもにお申し出の方さえあるくらいであります。委員会にあなたに来ていただいて、私どもは、きょうまでにいろいろルバング島の問題を扱った中で、一番きょうがぴったり頭の中に、その中の情勢がよく入りました。そのよくわからしていただいたあなたに、今晩から重荷をしょわせるということは、委員会の望むところではありませんから、その点はどうぞお心持を平らにして下さい。このお二人を救出するために、幾らでも率先して、自分が行きたいといって私どもにそれぞれお申し出になった方もあるくらいでございますから、赤津さんの御好意はよくわかりますけれども、この委員会に出たおかげで今晩からあなたがノイローゼになっておしまいになるというようなことでは、委員会としてはまことに申しわけございません。同僚も、そういう意味で申し上げたわけではございませんから、お気におとめにならないように。そして、私は委員長にお願いを申し上げるわけですが、本特別委員会としては、先ほど申したように、この問題でいかなる努力をいたし、苦労をしてでも、必ず救出するという意思決定を、自民、社会両党でいたしたいと思うのであります。なお、日本国国会としても、先ほど社会党の中村さんその他の皆様方と御相談をいたしましたが、これは本会議において両党共同提案の決議をいたすことに異論ないというお話でございましたので、本委員会の要望として、ぜひしかるべきところにお取り次ぎを願いまして、早急に、日本国がこのお二人の方を救出するのにいかに熱意を込めているかということの意思表示をいたしたいと思いますので、ぜひこの問題を早急に本会議の決議として、両党の決議として提案できるようにお取り計らいをいただきますようにお願いを申し上げまして、私の質問を終ります。
○田口委員長 ただいまの山下委員からの申し出につきましては、委員長としてすみやかに適当な処置をいたしたいと思いますから、どうか御了承願いたいと思います。
○大貫委員 ちょっと赤津さんに一点だけ。
 あなたが現地におられた当時、今度の戦争でいわゆる戦争犯罪者――過去の戦争の常識では、こんな例はなかったわけです。ところが、今度の戦争では、負けた方の者が大量戦争犯罪者として勝った方の国から裁判を受けた、いわゆる戦犯ですね。そういうことが、どうでしょうか、島におってわかっておったでしょうか、あるいは全然知らなかったでしょうか。
○赤津勇君 それは知っておりました。といいますのは、いまだ島に大ぜいいまして、盛んに投降勧告の工作をしている時分に、当時の新聞を読んだ。その記事には、東条さんの裁判のことが出ておりました。それとまた、裏面の方に加藤シヅエさんでありますが、あの方とマッカーサー司令部との一問一答の記事なども出ておりました。南方にいる父あるいは夫、兄を、一日も早く帰してくれるように嘆願している一問一答が出ておりました。私の投降も実はその記事に若干影響されておる。といいますのは、そのときの加藤さんの質問に対し、マッカーサー司令部の答えというのは、とにかく一日も早く南方から引き揚げるよう努力はするが、いかんせん広範囲でもあり、多数の人員であるので早急には片づかない、少くとも五年はかかるだろうということが出ておった。私は、何の気なしにその五年間というものがぴんと頭にきまして、どうもこの五年というのがくさい、そして五年間だけは、何でもかんでもがんばらなければいけないとひそかにそう決心いたしまして、大体そのころを見計らって山をおりたようなわけであります。当時、私がおるときは、戦犯の期限が切れておったように聞いております。期間内であったならば、あるいは私もどうなっておったかわからないと思います。
○大貫委員 それでは、小野田さんももちろんそういうことはわかっておったわけですね。戦犯として処刑されておる者があるということ、フィリピン関係なんかで、処刑をされたなどということは聞いておりませんでしたか。
○赤津勇君 その記事を見た当時は、私小野田さんと一緒におりませんでした。その当時私は別のグループにおりまして、小野田さんのグループにはおりませんでした。ですから、果して小野田さんなり小塚さんなりが、その記事を読んだかどうかは知りません。私が小野田さんのグループに加入いたしましたのは――その当時は、小野田氏、小塚氏、嶋田氏と三人でおったのですが、私はほかの二人の仲間と一緒に別のグループにおりました。ちょうど日米両軍の投降勧告隊員が大ぜい見えましたのですが、そのときに、私の仲間が二人、夜里へ物取りに出まして、私はちょうど留守番のような格好になって残りました。その晩、どうも様子がおかしいというので、その二人、それになくなった嶋田伍長なども――実はもう一人別の隊の人と四人で行ったのですが、様子がおかしいので、物をとることができずに、から身でもって帰ってきました。普通でしたならばそう無理までして夜間の行動はしないのですが、その晩に限ってあまりにも様子がおかしい、できるだけ隠れ家に近いところに来ていようというので、幸い月明りもありましたので、それを利用いたしましてかなり奥まで来たそうです。偶然にもそのとき、その奥の広場に勧告隊の方が陣をしいておりまして――昼間行ったときにはいなかったのです。ですから、帰りももちろんいないと思ってそこを通りかかったのですが、あとからそこにきっと陣をしいたものと見えます。そこへ飛び込んで行きました。敵の方はそれを知って、切り込みか何かが来たんではないかという懸念からでしょうか、すぐ発砲いたしました。私はそれを住家にいてよく聞きましたが、まさかそのときその二人がやられたとは思いませんでした。翌日になってその場所でもって仲間の所持品らしいものを発見したり、また、血痕なりつけて二人が殺されたという事実を知ったのです。そして、私は結局一人ぼっちになってしまいました。そこで、いろいろの方が心配いたしまして、結局嶋田伍長なり、小野田少尉殿のいるところに加わるのが一番妥当だという意見、また自分もその方を希望しておりましたので、合流することになったのです。
○大貫委員 赤津さんはけっこうですから、外務省にちょっと。
 今お話を伺っておりますと、これは相当何か逼迫しているような感じがするのです。というのは、射殺事件があったということで、フィリピン当局ではあるいは大々的な討伐なんかをなされるんじゃないかということが非常に懸念される。まずこれは外交的に救出するということで、そういう行動に出ないようなことをフィリピン政府に折衝してもらわなければならぬのじゃないか。国会は国会で意思決定をやるとしても、とりあえずそういう適宜の処置を外務省の方でとってもらわなければならぬ。それで、先ほど赤津さんから伺っていますと、小野田さんは特殊教育を受けた人であれば、なおさら非常に敏感だと思うのです。私ども満州で若干の経験がありますが、特にそういう謀略工作をやった者は、戦犯なんかの問題も、ほかの者よりも特に敏感に感じておると思います。ですから、おそらくはこのまま放置しますと、どうせ出たってもう助からぬ命だということで、かりに最近起ったこの二名の射殺事件が小野田さんなどの手でなされたものだとすれば、これは容易ならぬことだと思います。私は実感としてそう感じます。まずその命の保障について手を打たないと、これらの本人たちはもう自暴自棄というか、特殊な、荒れたものになっていると思うのです。どうせ出たって戦犯としてやられるんじゃないか、特に謀略工作なんかをやってきた自分としては、もう助からぬのだ、最後のたまも切れておるからどうしようもないということで、最後の腹をきめて、あばれられるだけあばれようということになると、これはどうにもならないんじゃないか。だからまず、そういう大々的な討伐工作なんかしないということが先決。それから第二段としては、救出のためにどういうことを使うか、そのことは国会として、この委員会でも相談されるべきことなんですけれども、命を助けるというか、討伐しないことを保証するという交渉をしてもらいたいと思います。
○田口委員長 山口シヅエ君。
○山口(シ)委員 私は赤津さんに一点、特にお伺いしたいことがあるのです。先ほどの御説明の中で、私の方がうっかりいたしておりまして聞きそこなっております点ですが、あなたが下山なさるとき、その前にすでに二人に別れて、お一人でいる時間がございましたね、それは何カ月くらいでございましたか。
○赤津勇君 八カ月か九カ月だと思います。
○山口(シ)委員 その間一人で、食糧はどういう状態でございましたか。
○赤津勇君 同じでございます。
○山口(シ)委員 やはり一人でいろいろなものをとる……。
○赤津勇君 ええ。
○山口(シ)委員 そこで熱病にかかられて、病気がきっかけで下山なさったわけですね。そうしますと、下山なさったときには、小野田さんにも、もう一人の小塚さんにも何の連絡もなく、お一人でおりてきてしまわれたのですか。
○赤津勇君 ええ。
○山口(シ)委員 そうすると、そのときのお二人の状態は御存じないわけですね、八カ月という間は。
 それからもう一つ伺いたいことは、天然にできた果実を常食にしていたのですが、それは山の中のバナナ、ヤシ、パパイアだとかマンゴ、そういうものでございましたか。
○赤津勇君 大体そうでございます。
○山口(シ)委員 そのほかの栄養は、馬だの牛だのを一人で殺して食べていた……。
○赤津勇君 そうです。
○山口(シ)委員 その状態で、あなたは足が浮いてしまうとか、栄養失調に近い状態になったわけですね。
○赤津勇君 結局塩分の不足からきたのではないかと思うのでございます。
○山口(シ)委員 実は、私の弟は、やはりフィリピンのネグロス島で餓死をしております。あなたの本日のお話が非常に参考になりましたし、私としてもその当時の弟の姿なども思い浮かべまして、大へんありがたかったと思います。そして私が自分の弟を餓死させたということからいろいろ想像しますのに、あなたのあとに残りましたお二人が、そういう状態で果してこの十年近く、ここで申し上げてはいけないことかもしれませんが、このたび二人の現地人の犠牲者が出たということで、われわれもお二人が生きているという望みを持ったのですが、果してそのような状態で生きておられるものでございましょうか、これは想像でございますが……。
○赤津勇君 私は一緒に五年ほどおったのですが、もう五年生きられればあとは一緒ではないかと思うのです。すでにその生活には、なれてしまっておりまして、さほど苦痛は感じませんでした。
○山口(シ)委員 それじゃ、一そう私は安心して希望をつなぐことができます。
 それからもう一つ伺いたいことは、先ほどあなたは、山の上りおりは半日もあればできるとおっしゃいましたか。
○赤津勇君 大ていそのぐらいでもってできると思います。
○山口(シ)委員 そうすると、非常に小さい山ですね。
○赤津勇君 小さい山です。
○山口(シ)委員 実は私は弟の死に場所に入ろうといたしましたら、このジャングルは、一たび入ると出ることができないから、入ってはいかぬと現地人にとめられたのですが、それぐらいの大きさでございますか。私は、それにおいてもやはり一つの望みをかけられると思います。往復半日で上りおりができれば……。
○赤津勇君 その点、ちょっと誤解のないように申し添えておきますが、ほんとうの奥へ行くのにはもっとかかるかもしれません。しかしあまり奥へ行ってしまいますと、今度食糧調達の場合に困りますので、さほど奥には入っておりません。大体半日ぐらいで出られるようなところにひそんでおります。
○山口(シ)委員 山の大きさでなく、その程度の場所にいるということですか。
○赤津勇君 そうです。
○山口(シ)委員 そうしますと、山へは住民は、出たり入ったり多くするのですか。
○赤津勇君 絶えずしております。天気がよければ必ず住民が入っているようです。
○山口(シ)委員 何しに入ってくるのでしょうか。
○赤津勇君 木を切ったり、トウづるを切りに入ります。そのトウづるを探しに来る住民の行動が一番こわいのです。といいますのは、トウというものは至るところにありまして、また、とても向うの住民は重要視しておりますので、トウにつきましてはどんなところへでも入ってくるのです。こちらで安全だと思っておりましても、近所にトウがありますと、あるいはそれを目標にやってこないとも限らない。ですから、そのトウ取りの住民が一番こわいのです。
○山口(シ)委員 お水はどういたしておりましたか。
○赤津勇君 水は谷川で、心配ありません。
○山口(シ)委員 谷川のあるような山でございますか。
○赤津勇君 長くおりますので、大体どこへ行けば水があるということはわかっております。
○山口(シ)委員 生きているという希望は一そうつなげますね。ありがとうございました。
(以下、略)

[筆者注]
(注1)「勇一」のはずだが、ここでは「勇」となっている。
(注2)「郵里」。おそらく、「郷里」の誤植。

[出典]
国会会議録

[キーワード]
小野田寛郎

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