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『江戸のダイナミズム』西尾幹二(文藝春秋)

『江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋』西尾幹二(文藝春秋)

2007年1月30日初版発行
638頁



著者は、ドイツ文学者、評論家。

古代文献学から近代ドイツ文献学、それとの江戸時代の我が国の文献学の比較。清朝考証学(考拠学)、言語の音、本居宣長の思想、新井白石、荻生徂徠、伊藤仁斎について等々、広範にわたり論が展開されている。

同じ題の講演が本書の元なので文章は難解ではなく分かりやすい。

「江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋」というには、一書として名が体を表していない感がある。

だが、重要で傾聴に値する箇所があちこちにあり有益ではあった。

忙しい人やエッセンスを手っ取り早く知りたい人は、本書の本居宣長についての部分、すなわち第10~12章を読むとよい。

なお、全集は長谷川三千子との対談その他が追補されている。

以下、重要な指摘を引用。

(p.117)

江戸時代はキリシタンの禁制を除けば、宗教上の教義からくる政治的制約がそれほど強くはなかった、のびやかな時代だったのです。従って近代文献学の意識が世界で最も早く出現したのもむべなるかなです。これを「自由」の名で呼ぶことは必ずしも正確ではありません。儒教、仏教、神道のどれをも絶対化しない日本人の文化そのものの反映であって、今のわれわれの宗教観につながっています。われわれにはおおらかさと人間らしいのびやかさがあったのであって、「自由」とは関係ありません。異端審問の裁判もなく、宗教に関して格別の不自由がなかったのはこの国では昔からの慣例でした。いわゆる原理主義の不自由のあるところにだけ「自由」があるのです。日本には不自由がなかったから「自由」があったということにはなりません。「自由」というのはきわめてヨーロッパ的な概念であり、われわれ日本人には昔も今もあまり関係がないといってよいでしょう。

(p.567 第9章 (7)注)

宗教に対するある理解の仕方が正解であったか、誤解であったかは合理的に決められることではない。誤解によっても人は信仰を得ることができるし、認識を拡大することができる。そしてそれが結果として正解に触れ、それを包みこんで増殖していくことがありうる。いな大概の発展する宗教の伝播の仕方はそういうものだろう。仏教でもなにが本当のシャカの直説であるか、根本仏典はどれであるかを問い直したら最後、迷宮入りするのが落ちである。近代の仏教界で、大乗非仏説などといっていきり立つ動きがあったらしいが、大乗仏教という「誤解」で数千年を生きた中国以北のアジア人の歴史は、原典へ帰れという純粋主義を、近代的実証に毒された一片の迷妄としてあざ笑うだけであろう。人は「正解」を知っただけではなんにもならない。それは単なる知識である。知識で人は生きることはできない。「客観的な事実」とは近代人のもっとも陥りやすい錯覚の一種である。
(『世界の名著 ショーペンハウアー』収録の「ショーペンハウアーの思想と人間像」より)

(p.494)
現代の学者が以上のように、神話を神話として素直に読めない理由はおおよそ二つあります。一つは軍国主義による神話利用と称されるものの後遺症、もう一つは近代の合理主義からの要請です。(略)後者は明治時代の批判史学に始まるのではなく、江戸の儒学に始まる根の深い問題です。


[関連]
『西尾幹二全集 第20巻 江戸のダイナミズム―古代と近代の架け橋』西尾幹二(2017・国書刊行会)

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