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日本の都市(一)~(四)秋田市

日本の都市(一)~(四)(「東京時事新報」明治44年(1911)12月15日-18日)

日本の都市(一)
秋田市(一)

緒言
(省略)

旧名を久保田と云い近世佐竹氏の城市たり。今秋田市と云う。御物川(おものがわ)の右岸に近く旭川の東西に布置し大略(たいりゃく)川の東を内町(うちまち)と呼び旧城、兵営、官衙士邸等之に属し西を外町と称し商工庶業概ね之に聚まる。南北よりすれば県の中央東西よりすれば県の西端北緯三十九度四十二分東経百四十度七分に当る。
今の秋田城市は慶長七年佐竹義宣の開く所元和文書には是を窪田と云い以て従来の秋田城市に分てり奈良平安朝の秋田城は今の寺内村にして戦国時代の秋田安東氏は湊城(土崎)に居る故を以て佐竹氏入部(にゅうぶ)の初め専ら秋田の城市と指目せられたるは湊の邑里にして今の秋田城は後世に至るも秋田の久保田城と呼ばれぬ、而(しか)して近時全く久保田を秋田と改む、市の広袤(こうぼう)東西二十四丁南北三十五丁面積実に〇、二八里
明治維新の際藩主佐竹義尭奥羽賊軍の間に孤立して勤王の大義を唱えたるは今贅せず四年廃藩置県の後第一大区に属し三小区に画せられ十年郡区町村の編制に当りて南秋田郡秋田町と呼び二十二年四月市町村制の実施に際し始めて自治区となり土手長町に市庁舎開きて茲(ここ)に秋田市発展の第一歩程に立てり
今市制施行前の秋田町を回想するに真に寒心に堪えざるものありき即ち十九年には祝融暴威を逞うして市中の商業地区大半を烏有とし続いて悪疫流行して之に斃るる者千四百余人に加うるに旧藩士族の産を失い職を求めて他府県殊(こと)に北海道に移住する者相踵(あいつ)ぎたるが故に人口は漸次に減少し市街は年々衰運に向い心ある者をして徐(そぞ)ろに其前途を憂慮せしめぬ
然るに二十七八年戦役の後を享けたる軍備拡張の結果として二十九年には歩兵第十六旅団司令部並に歩兵第十七連隊新設せられて中城南北の地は両羽(りょうう)の壮丁練武の巷と変じ三十五年には奥羽北線三十八年には同南線開通を見て頓(とみ)に文明式交通機関の恵沢に浴じたるのみならず三十三年には独立選挙区なりて議員を中央議場に送り三十六年には経費約五十万円の予算を以て市水道敷設工事に着手する等(とう)市勢漸く興隆の気を示せり現時の戸数六千百八十七戸、人口三万五千百九十四人、二十年前に比して約二割を増加したり


日本の都市(二)
秋田市(二)

市の教育事業が旧藩の学事に淵源する所多きは云うを俟たず即ち寛政年中には京都の鴻儒村瀬栲亭(こうてい)を招聘して藩学明徳館の講師となし次で執政疋田柳塘(ひきたりゅうとう)祭酒中山菁莪(せいが)等或は学校を建設し書籍を購入したるに加えて文政年間に至り藩主佐竹義和躬(み)を以て衆に先んじ専ら学問攻究の事に力を尽ししかば斯文(しぶん)の隆盛此時を以て最(さい)とせしと伝う藩学明徳館址(し)は今師範学校となりて八幡宮の南に在り
此文運を享けたる市の教育事業は如何(いかん)県の施設に属するのもは暫く別とし市設の小学校は総計七校現在の就学児童四千四百六十二人学齢児童五千六百十八人に対し就学歩合実に九九、四五に当る而して校舎は漸次改築若くは新造せるが故に概ね宏壮にして清潔些(さ)の咎むべき所なし又別に特業教育機関として工業徒弟学校商業補習学校等あり前者は木工、金工、漆工等に分れて専ら徒弟の為めに手工芸を授け後者は商家の子弟を蒐(あつ)めて夜間簿記算術等の学芸を教う両校共に六七十名の生徒を有せり而して私立のものには福田(ふくでん)小学校、咸恩講保育院、秋田女子技芸学校、女子職業学校、保戸野、秋田、楢山の三幼稚園等あるも特に注意すべきを福田学校及び保育院となす
福田小学校は去る二十八年五月土地の素封家本間金之助氏の私財を投じて設立せしものに係る其目的は福田(ふくでん)の二字之を表明して余りある如く専ら貧窮者の子弟を集めて普通教育を授くるにありて成績頗る良好なり又咸恩講保育院は有名なる慈善団体咸恩講の付属事業として去る三十八年開設せられたるものにして其事業は福田学校の貧児に加うるに孤児を以てして普通教育を授け成業の後は職業紹介の労をも執るに在り記事茲に至りて我邦(わがくに)有数の慈善団体たる秋田の咸恩講を見ざる可(べか)らず
昔し慶長年中那波三郎右衛門なる人久保田城下(今の秋田)に来り藩の用達(ようたし)を命ぜられて子孫連綿其業(ぎょう)を継ぐ降って文政年中の当主三郎右衛門祐生博愛慈善の志厚く外町(商工家町)貧家の惨状を見て黙過するに忍びず之を救済する目的を以て有志を結合して準備金を募集して一講社を組織し名(なづ)けて咸恩講と云う藩主佐竹義厚又救貧憐孤の志深かりしを以て大に其事業を賛して金品を補助し講社の基礎愈々(いよいよ)堅し廃藩置県の際官憲の誤解に因り一時資産を没収せられんとしたる事ありしが理事者は成立以降の沿革と事業の精神成績とを弁疏(べんそ)して之を免れたるのみならず超て三年新政府は五千余円を下賜し十四年更に四万九千余円を事業資金に交付し同年聖上東北巡幸の際には特に那波氏の後裔を召して謁を賜うの事□□□て二十五年には畏(かしこ)くも皇室より三百円下賜の光栄に浴し三十一年には新法律に基き財団法人の組織となして以て今日に至る現に有する所の資産公債、地所、建物金品を合して十七万千八百余円全国稀覯(きこう)の大慈善団なり
咸恩講の救済方法と其成果とを聞くに救恤(きゅうじゅつ)の目的とする所は外町一体に住する鰥寡孤独(かんかこどく)不具廃疾病瘋癩白痴窮困等にして家族多き者には一日一人白米二合六勺宛小児には其半額を支給し又別に極寒風雪の時に際し衣類薪炭を給与するの制あり今文政十二年の創設以来昨四十三年に至る救恤延人員を査するに其数四百十七万四千余人給与白米高九千八百余石の巨額に上れり去二十七年前記三郎右衛門祐生の孫祐富等主唱して同志と協力し内町(旧士族町)にも亦(また)一講を設立し東部咸恩講と名けて同町居住の窮困者救恤に□(あ)つ之よりして已設外町の分を西部咸恩講と呼ぶ
救済事業の状勢は右の如し進んで貯蓄機関を見るに産業組合法に拠るものに秋田共益信用組合及び敬貫信用組合あり共益組合は近く四十四年三月の設立に依りて市会議員にして商業会議所旧記長たる市川護幸氏之を統ぶ現在の組合員二百六十二人千三百四十九口(くち)にして一口一円五十箇月払込の方法に由り組合員に貸与融通す敬貫組合又之と類似して次第に発展の途上に在り

(三)欠。


日本の都市(四)
秋田市(四)

交通事業の中道路行政の如きは其性質固(もと)より自治の経営に属すべきものたり然れども我邦の制度は一般道路を分ちて国道、県道、里道(りどう)の三種となすにあるを以て随て市内に縦横する道路も亦自ら此三種に区分せられざるを得ず即ち秋田市内の道路延長は五万三千五百七間(けん)にして内国道千八百六十七間、県道千五百六十八間、里道五万七十二間なるが此里道こそ市の直轄経営に属するものたり道路修繕の材料は砂利を主とし看守人を置きて絶えず巡視督励せしむるの方法を採るも各種経費の多端なる未だ理想上の改良を施すの時に達せず殊に土瀝青(どれいせい)を出すを以て有名なる地方にして尚お之を利用するの進運に出ざるは遺憾とすべし
橋梁は旭川に架設するもの県費三箇町市費七箇所あり其他所在に点々たる小橋の数は八百八十八箇処にして此坪数五百二十九坪を有す市の東南を流るる太平川並(ならび)に雄物川は夏期往々氾濫して市の東南部一帯に浸水すること珍らしからざるが故に今や築堤を主眼とする予防工事の設計を立て経費約六千六百円を投じて水害□却の事業を完成せんとす、近く実現すべし
市の勧業事業は蚕糸業組合、各種博覧会及び在札幌の秋田物産館の出品運搬費等に対し相当の補助を与うるの外(ほか)□業者の県外商工業を視察するに際し其費額を補給する等の方法あり又電力供給には秋田電気会社あり羽生氏熟氏の経営にかかり資金十五万円にして発電所は鳥海山麓の水力と広山田村の火力とを並用し線路二十八里線条九十四里市内一般に点火動力の供給に当れり又近く秋田瓦斯(がす)会社なるもの三十万円の資金を以て設立せられ現に鉄管の埋没中なるが其供給区域は市の中央なる繁華の街衢(がいく)を先にし次第に全市に及ぼさん計画なりと云う此種の事業完成の暁(あかつき)に於て市の商工業に及ぼす効果は蓋(けだ)し多大なるものあらん
転じて財政状態を見るに四十四年度歳入出予算は十四万五千四百十六円五十三銭三厘にして其内主なる款項を挙ぐれば左の如し

(歳入歳出の表。省略)

右の外臨時費に於て前記水害予防工事費六千六百十一円余、学校改築及び敷地買収費一万二千五百九十円余あり現在の市債額は四十九万五千六百二円余にして利率は六朱並に五朱三厘の二種あり償還期限は来る六十七年迄にして大部分水道敷設に要したるものなること既に述ぶるが如し
市制施行の当時市長の職に就けるを小泉吉太郎氏と云い在職六年、次で羽生氏熟氏上任したるも僅に三四箇月にして辞し御代弦氏代りて市政を統ぶ氏は二十九年より三十八年に至る殆ど十年間在職して野口能敬氏に譲る野口氏又た任に在る極めて短かく三十九年七月辞し大久保鉄作氏之に代りて今尚お其職に在り助役を高根為吉氏と云い警察部の出身なり
現市長大久保鉄作氏は秋田藩士にして漢籍を根本通明翁に受け又平田篤胤の学風を継地する雷風義塾に入りて国学を修む明治四十同志と共に共和義(ママ)を設けし専ら洋学扶植の途(と)を講ず後ち東京に出でて朝野新聞社に入り盛んに民権論を鼓吹して朝譴を蒙り成嶋柳北、末広鉄膓の諸氏と共に遂に囹圄(れいご)の人となる十年父の訃に接して帰郷秋田日報を起して親(みずから)ら筆を執り十六年秋田改進党を組織し次で県会議員に挙げられ議長兼常務委員たり二十一年大同団結に与して西南を遊説し二十五年楠本正隆氏等と共に革新派を組織す二十七八年役には請いて戦地に赴き三十年台湾並に南清地方を視察したる事あり三十二年星亨氏を補(たす)けて憲政党の組織に当り三十二年選まれて衆議院議員と為り三十六年再選中央政界に於ても亦重きを為せり三十九年市長に就職し以て今日に至る
前内相平田東助子は其郷国たる関係より秋田を以て全国の模範市たらしむべく奨励し大久保市長又其意を体して励精治を図りつつありと云う助役高根氏は嘗つて県警視として秋田警察署長たりし人、大久保市長を輔けて又令名あり(完)次は福島市)

(原文は旧字旧かな。新字新かなに改める。「□」は、判読不能の字。)

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