台湾の移民状態(上下)(「中央新聞」、明治45年(1912)3月26日、27日)
台湾の移民状態(上)
台湾総督府財務局長 中川友次郎氏談
場所は東部台湾
台湾への移民は、漸く昨年度から実施する事になったので、今日に於ては未だ移民として殊更に取立てて云々する程度には進んで居ないのである。が、台湾総督府が此の移民を企てたのは、東部台湾、即ち台東庁と花蓮港庁との平野に、真面目なる内地農民を移して、此の一帯を開墾せしめ完全なる大農村をつくらんとするのである。然らば何故東部台湾にのみ移住せしめるかと云うに、西部の大平野には既に本島人が多数に居住して各々開墾農作に従事し、大部分は最早良田美圃となり、今改めて内地農民を移すの余地が少ないに反し、東部台湾一帯の平野は今迄交通の便を欠いて居たがため僅かに帰順生蕃が散在し、不完全なる農作をして居るに過ぎず、而かも其地味たるや頗る肥沃して最も農作に適するのと、今一は地勢上此の一帯が台湾の北海道とも称すべき地位にあって、西部の如く起業的殖民地に適しないと云う事とに依るのである。
吉野村の移住民
総督府の移民方針が以上の通りであるから、昨年度に移住した六十余戸(二百九十五人にして最も多きが徳島県人、其の他の諸府県よりも多少ずつ加って居る)も、又今年度に移住した百余戸の移民も、皆東部台湾、即ち花蓮港庁に移し、同庁を距る事二十四町ばかりの所に二千九十甲(一甲は九反七畝二十四歩)の地を卜し吉野村と称して此所の開墾農作に従事せしめて居るのである。而して此等両度に移住した農民は非常の熱心と愉快とを以て其業に従い、今回土地の氏神として太神宮を奉祀する事とし既に幾百円という寄附金も集った模様である。又此等の中で、学齢に達した児童も多数であるが、此等の為めには内地と等しき小学校があって各々其所に入学して居る。来年度に於ても既に予算にも計上してあるから、今年度と等しく政府直営を以て幾程かの内地農民を募集して移住せしめる筈であるが、来年度は多分台東庁の卑南附近の地に移住せしむる事になるであろう。此の外台東拓殖会社の手でも此地方には既に数十戸の移民がある筈であるし、又精糖会社等にも内地人の移住を条件として許した者もあるから漸次其数も増すであろう。
移住地の農作物
次に移住地に於ける農作物は如何なるものが出来るかというに、其の主なるものは(米七月、十一月の二回の収穫)甘蔗(さとうきび)、麦、甘藷(さつまいも)、豆類で其の他色々あるけれども、現在移住して居る吉野村の農民は主として甘蔗、麦、甘藷抔(など)を作り、其の他のものは只だ僅かずつ作って居るのであるが、甘蔗は初年に植付けて置けば二年目よりは苗を植える必要がなく古株より出た芽を培養することが出来るし、甘藷なども殆んど四時を通じて耕作する事が出来る。而かも此等作物の販路に関しては政府が種々斡旋して居るから決して其の売行きに苦しむ事はなく、農民は只だ耕作すれば、それが軈て金となって手に帰するのである。又此等の開墾地もやがては水田とする目的で、吉野村附近は既に用水工事にも着手して居るから此が出来上った暁は大(おおい)に米作をする事が出来る訳である。
台湾の移民状態(下)
台湾総督府財務局長 中川友次郎氏談
旅費と家屋
然らば此等台湾への移民が渡航する方法は如何なるものであるかと云えば、元来が政府直営の移民であるだけに甚だ好都合である。先ず移民の条件としては、身体強健にして素行正しく永住の目的を以て家族を引連れ移住するという事であるから何人(なんぴと)でも渡航する事が出来るのである。(但し希望者は市町村長の身元証明戸籍謄本を添え総督府殖産局へ願書を出すのである)で愈々移民たる事を許可せられると其渡航旅費の半額を補給せられ移住地に着けば既に総督府から建られた家屋に入る事が出来る。此家は純然たる日本の農家で六畳二間台所板敷四畳半に流し、土間が附いて居る、併し此建築費(凡そ三百円)は移住後四年目より十箇年賦で官に納めるのである。又此家屋に附随する宅地は二百六十坪であるが、其の代金も同じく移住後四年目より四箇年賦で納めるのである。
開墾地と地代
斯くして其所に一戸を構え愈々移住民となると一家五人と見做し一戸分畑地三甲(一甲は九反七畝二十四歩なるに依り二町九反二畝十二歩)を貸下げられる(田地なれば一甲五分、田畑混交なれば此に準ず)故は移住民は各々此の地面を開墾して農作をするのであるが、此の貸下げられる耕地は大抵土人の開墾した土地又は肥沃な□生地で、未開墾地は総督府に於て一応粗開墾した地面であるから、作物を植付る迄に開墾するには極めて僅少の日数で出来るでのある、(併し万一其開墾をせざる土地を与えた場合には其粗開墾中移住者男一人五十銭女一人に三十銭の日給と、毎日二人許り土地の人夫を給せられる事になって居る)従て翌年は完全肥沃なる田畑となり内地と等く相当の収穫をする事が出来るのである。が此の土地も移住後四年目から十ヶ年賦で一家別(宅地とも)一年十三四円内外の地代を官に納め其の所有権を得るのである。故に移住者としては前に言った渡航旅費の半額と、移住後収穫を得る迄の一年の生計費とを用意すればそれで可いのである。殊に生計費も気候の関係上衣服は一枚で済むから単に一家の食費だけ(凡そ二百円)である。
気候と疾病
由来台湾と云えば気候悪しく、諸種の疾病流行する様に思われて居るが、実際に当って見ると決して左様ではない。最近五ヶ年の平均温度を見ても最も暑い七月が八十三四度、寒いのが六十二三度である。又現在移住して居る九州の人々は気候に左程を覚えぬと云って居る。又疾病としても近時大に衛生に力を致した流行病に罹る者極めて少く、彼のマラリヤの如きも都会には殆んど其の跡を絶ち地方に於ても漸時減退して行く有様であるし、又それぞれ予防薬があるから此の点も憂慮するには及ばない。其の他教育警察等も完備して来て居るから移住地と言っても決して不便や危険はないのである。殊に近時蚕業、棉花及び護謨(ごむ)の栽培其の他諸種の新事業が勃興しつつあるから資本家は勿論一般の農民も大に此の辺に向って発展すべきであろう。
(原文は旧字旧かな。新字新かなに改める。「□」は、判読不能の字。)