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「長江流域の日本人」

「長江流域の日本人」(一)~(六)(「中央新聞」、明治45年(1912)4月17日-23日)

長江流域の日本人(一)
上海

日本居留民
上海は東洋第一の貿易港である、近年の発達は殊に著しく租界は大廈高楼櫛比して最早尺寸の地を余さないから租界外の近郷に溢れて五光の如く諸方に洋風の居宅が建てられつつある、然かも此の五光のような街路は多く日本人に依て住われて居る、北四川路とか静安寺路とかは日本の市街ではないかと思わるるようで今では日本人の上海に居留するもの一万五千を数うるに至った、文路とか西華徳路とか乍浦路とかへ行くと宛然(まるで)銀座通(どおり)を歩く如(よう)に平仮名の招牌(かんばん)がのべつに掛って其間には方形の行灯を出してる料理屋が点綴している

日本の大商店
上海に於ける日本の大商店を挙ると郵船会社、三井、三菱、大倉、高田、正金銀行、日清汽船、台湾銀行、古河公司、半田綿行等で郵船会社の如きは埠頭のすぐ前に四層の巍々たる大建築を有し四方を睥睨している、古川の銅大倉の土木特に銃砲売込は盛んなものだ三百万円の借款は畢竟銃砲の売掛金が大部分を占めている、三井は殆ど有らゆる貨物の輸出入に手を拡げて活動し、三菱の石炭、高田の機械類皆相当に繁昌している南満鉄道が黄樹浦に於て江岸に広大の地積を買収し大倉庫を幾つとなく建て連ね今尚お建築中だが出来上ったら大したものであろう、日清汽船は今では長江航路の覇王である、外国の汽船会社も大きなものが沢山ある中にも英の太沽(タークー)、怡和(いわ)両会社、独のノルド、ドイッチェ、ロイド、仏の東方公司及び支那の招商局の如き数艘の汽船を出して盛に競争しているが我日清汽船には迚もかなわぬ、序(ついで)に言って置くが支那で商売をするには買弁(コンプラドル)というものが必要だ、買弁で支那人で外国人と支那人との間に立って媒介をするので郵船でも日清でも正金でも皆買弁を使って居る、之れがないと如何なる大会社でも支那人は信用しない、それで此買弁は大層儲かり三年やれば孫の代まで寝て食えるという程のものである我(わが)邦人が一歩進んで買弁なしに事業が出来るようにしたら利益はたいしたものであろう

旅館料理店の繁昌
今度の動乱で各種の商業は大打撃を被ったが独り料理屋と旅館は大儲をした、日本旅館で大きなのは先ず豊陽館が第一で東和洋行松崎洋行、常盤館、徳田館などは二流三流だが此等の旅館は何れも大繁昌で常に旅客満室だ、料理店では六三亭、月廼家新六三、藤村等で松廼家以下三流になると沢山ある特に動乱中は雨後の筍のように盛に出来た芸妓(げいしゃ)の数が二百人あって其で中々客の招きに応じきれない然も此芸妓は皆長崎或は其(その)付近の出身で純粋の長崎語を話すのが中々愛嬌だ他の地方から来ている婦人連も長崎勢力に圧倒され皆長崎語を一生懸命稽古している

通関と鞘取
上海に通関というものがある貨物を税関へかけるになんとかかんとか面倒だから多くの商人は皆貨物を通関の手に渡して税関を通じて貰うこれは運送業をやってるものが兼業している中々儲かるそうだ、其から鞘取(さやどり)をやっているものが沢山ある外国人と日本人との間又は日本人外国人と支那人との間に立って商売の媒介をして鞘を取る其で一ぱし商売になるから不思議なものだ、上海の事は書けば沢山あるが先ずこの位にして今度は南京の方へ移ろう(一記者)


長江流域の日本人(二)
南京

衰微せる南京
南京は二千年来歴代の帝都であったから規模の雄大なること天下第一である、一名金陵といい又江寗密府ともいうが金陵という名の起(おこ)りは種々(いろいろ)の説がある其中で周の顕王の三十六年に楚子熊商が越を敗って悉く故呉の地を取ったが此地に王気があるというので金(かね)を埋めて之を鎮めた、其で金陵というようになったと建康志に書てある、昔は壮麗無比の都城なりしも長髪賊の禍乱以来衰微して更に旧観を止めぬ、周囲七十五里の長壁内も大方は原野田圃に化し市街は唯一隅にあるに過ぎない、其で人口は二十五万と称している

邦人の事業皆無
日本人の事業といえば皆無といって善い位で郵便局と少数の雑貨店と一軒の旅館があるばかりだ、動乱前までは教習が沢山居った為め之に付随して居留民も多かった総計二百人を越えて居ったそうだ、動乱後は皆な帰国したり上海へ行ったりして今では甚だ僅かの人が居留してるに過ぎない、旅館は宝来館という、南京に共和政府が成立した時には多数の日本人が入込んだので此一軒の旅館では入りきれない其にも拘わらず日本人は支那旅館に宿(とま)るのが厭やだと見えて皆宝来館に宿り非常の混雑を極めたそうである

有望の事業
長江の船着の江岸を下関(しゃこわん)といいここまで汽車が着ている日清汽船も其他の外国船も皆下関に寄港するから此処は今後発展するであろう下関から城内の市街までは約二里ある馬車で四十分かかる若し投資しようとするなら事業はいくらでもある先(まず)電気事業だ下関と城内とに電車を設けたら必らず利益があろう又水道事業も有望だ南京の水の悪いことは甚だしい尤も水の悪いのは支那の特性だこれは長江の水を濾して水道を設くるが善い其他万般の事業が幼稚だから何をやっても利益はある何しろ上海を出でて漢口に到るまで煙突は一本も立ていないのを見ても如何に遺利(いり)多きかが分る


長江流域の日本人(三)
武漢

史跡に富る武漢
武漢というのは武昌(ぶしょう)と漢陽と漢口のことである、此地は長江と漢水とに隔てられて三鼎足の形をしている、昔は漢陽の大別山を中心として其周囲一面に三苗という蛮族が繁殖して居ったが周の時征服されて荊州(けいしゅう)の地となり戦国の時楚(そ)に入り両漢の時江夏郡となり、三国の時には呉蜀魏の分野で、中々面白き史談を竹帛(ちくはく)に垂れている、彼(か)の一代の英雄曹操が八十万の大軍で劉備を追かけて「水陸八十万将軍と呉に会猟(かいりょう)せん」と孫権にいい送ったのは此の地である又た彼れが槊(さく)を横(よこた)えて詩を賦した赤壁も程近い処である、武昌は孫権が都を此に奠(さだ)めてから中央支那の要衛となったので三国誌に有名な孔明が七星壇に風を祈りしという所も近所である、爾後常に中支那の重要都府となって居る、此地は鳳凰山蛇山(じゃざん)なんという丘陵があり李白の詩で有名な黄鶴楼が漢陽の清川閣と相対して城壁長蛇の如く江に臨んでいる所丸で絵のようだ、昔の黄鶴楼は今は焼けてしまって赤煉瓦の塔が立っているので大分風致を損じたが其の後に黄襖閣という立派な建築物が出来たので、矢張中清(ちゅうしん)第一の風景だ

日本居留民
人口は武昌が五十万、漢口八十万、漢陽二十万、合計百五十万と称すれども之れは少しく誇大過ぎる、武昌は二十万位のもので漢陽が十五万、漢口が六十万から八十万の間で中を取って七十万と見て先ず大約百万だろう、此(この)内外国人の数が三千から四千の間を往来している、日本人の数は二千を超過しているそうだから英米独仏露其他一切の外国人の数よりも多い訳だ、其が明治三十四年には僅に七十四人しかいなかったそうだが十年後の今日から見ると勢力の増進は驚くべきものだ、尤も昨年末は例の松村総領事の有名な婦人追還事件から日本婦人の数は領事の夫人と下婢と寺西中佐の夫人と四人しか居なくなり、男の方でも動乱の為め職業を失ったものの帰国又は他に転居した為め大に其数を減じたが、動乱も静まったから之れからずんずん増加するだろう

武漢の富源
日本人の武漢に於ける事業を述べる前に武漢の商工業地としての価値と物産の集散とを話して置きたい先ず武漢の地特に漢口には交通の上からいうと所謂四通八達の地である京漢鉄道の終点で粤漢(えつかん)、川漢鉄道の起点で長江の貫流を受け漢水、沅水、湘水の支流を控え河南、四川、湖南、湖北、江西、雲南、貴州の富を商工圏として居る特に湖南湖北江西の富を来ては大したものだ「両湖熟すれば天下[足]る」とは古(いにしえ)よりの言伝えである


長江流域の日本人(四)
武漢

集散貨物
武漢に集りくる貨物は[両]湖河南の小麦、胡麻、米、棉、鉄等を始めとして雲南貴州四川の絹布、薬剤、白蝋(はくろう)、毛皮及金、銀、銅、鉄、石炭等で其数の多いことは非常なものだ晩秋初春漢口の江岸は百貨輻輳し各倉庫は充満して収容しきれない已むを得ず江岸に天幕を張って雨露を凌ぐのだが遂には天幕すら間に合わないで露天に積重ね雨雪の濡るるが儘に放任して置く始末だこういう大商圏を有する大舞台は世界中殆ど其比を見ざる所で今に遥に合衆国のシカゴを凌駕するに至るは必然だ此の大舞台に立って働く立役者は我日本人より外にはない我日本は距離からいっても労銀からいっても各国に優って居る、元は英国人の独占であった商売の四分の一以上が今では日本人のものだ

日本人の事業
漢口に於ける日本商店の重なるものは三菱、三井、正金、大倉、日清汽船、日清洋行、東亜製粉、半田棉行、東亜公司、富士製紙等である三菱は日本租界の領事館前に宏壮な建築を有し重に石炭を販売している其後(うしろ)に大倉がある之は土木を主として他にも手を拡げている今度の動乱でも真先にピストル七百[挺]も売込んだ三井は機械石炭の売込農産物の買入等を重なるものとし是亦何でもやる東亜製粉は漢水の垠(ほとり)に宏大な工場を有して居て盛に製粉をやっている今度の動乱で会社は最後迄踏止(ふみとどまっ)て執業して居たが何しろ漢陽の戦(たたかい)では茲(ここ)が両軍の渡渉場となり隠蔽物となり激戦が茲で行われたからだいなしにされた、砲弾も大分中ったし小銃弾は数の知れない程中っている遂々凌げなくなって引払った所へ官兵が侵入して目ぼしい品は悉皆掠奪して行たそうだ、損害は余程大したもので営業上の損害まで入れると三十万を超えるとの事だ古河公司の銅売込は銅の価格が暴騰して以来取引不振を極めている殊に上顧客は漢陽の兵工廠だから此の動乱は大打撃だ、日信洋行の製油事業は中々盛んだ搾坊の一は漢口に一は漢陽にある漢口の分は搾取器数十台を備え一日の製造高は三千枚漢陽の方も同様だが之も動乱の為め大打撃を受た三井でも東興(日信)でも東亜製粉でも皆店員を四方に派出して銀貨を舟か車に載せて買出すのだが今度の動乱で銀貨など持って歩けるものでないから十一十二月の両月は商売は全く止った然し一月中旬からボツボツ荷が動き出して二月三月となって例年の七歩は出るようになった之れは農夫等は輸出を目当として胡麻とか小麦とか麻とかいうものを作るのだから何日(いつ)までも家に積んで置く訳にはいかない、金もなくなるし品物はローズになるし仕方がないから危険を冒して送り出すようになったのだ、妙なことに支那の強盗や土匪は銀は取るが品物は余り取らない、其れで今では殆んど七歩通(どおり)は漢口に集まるようになった斎藤洋行の漆なども一二月頃迄は全然(まるで)買出しが出来なかったが此頃では殆ど原状に復したそうだ


長江流域の日本人(五)
武漢

砂糖と木材
漢口に於ける砂糖の販売は中々盛んであるが之は太古洋行怡和洋行の二英商の独占であったのを、三井、日信、東興等の洋行が台湾糖を輸入し出してから大競争の結果今では太古、怡和を圧迫している、枕木の輸入も中々盛んであったが之れは三井と大倉とが独の瑞記(ずいき)、英の太古、宝順と競争して居った処近頃米国が競争場裡に立つに及んで三国は旗色甚だ宜しくない元来日本は距離からいえば競争国の中で一番優勝の地を占めているに拘わらず米国に圧せらるるは何故かというと日本の材木は北海道あたりから伐出したのを十分乾かしもせず碌に手もかけずに積み送るから寒国から暖国へ来て季候が急変する為め割れ目が出たり何かして枕木として持ちが悪いに反して米国のは十分乾かした上削り方も完全だし防腐の方法もチャンと取ってあるから持(もち)が善い其で日本は近距離の為め米国のよりは割安の材木を輸入するに拘わらず歓迎されないのだそうだ

日本商品の消長
煙草は専売局が必死となって売込んでいるが支那人は油物を食うので強い香物のあるのを好むが此点に於て到底外国産の煙草には敵はない之が十分発展の出来ない訳だ香水、石鹸、歯磨、楊子(ようじ)、漆器、彫刻、置物、陶製花瓶、玩具等は却々(なかなか)売行が善いだが燐寸(まっち)は大失敗だ、元は漢口輸入の燐寸の八九分は日本品であったが品物をおとしたのと□昌燐寸製造会社が漢口に出来たのとで今では殆ど駆逐されてしまった、洋傘とか時計とかは却々販路を拡張している長沙あたりでも日本の洋傘時計を見るのは愉快だ、綿糸綿布も却々売れるが此等の商売は動乱の為め殆ど杜絶の有様で大損害を蒙った

医業と売薬
医業は支那のことだから丸で話にならない、医術開業試験があるではなし医学校があるではなし傷寒論(しょうかんろん)位を素読すれば其で善いのだ薬剤は総て草根木皮で病人は自然療法に任すより外致し方がない我(わが)同仁病院は七八年前から開業して今は盛大にやっているが医術は余り進歩したものではないらしい、其で売薬業が中々繁昌する日本の日華薬舗とか丸三洋行とか若林洋行とか回春堂とか何れも盛大だ、殊に丸三洋行の如きは四五十人の売薬行商を地方に派出している、最も売行の善いものは清涼剤で苦塩酸レモナーデなどは中々売れる其から滋養薬や腸胃鎮痛剤や虫下し感冒剤は其に次で売行が善(よい)そうだ

旅館と料理店
旅館は松廼家、竹廼家、梅廼家等で室の構造は支那家屋と西洋家屋の折中で之に畳を敷たのが日本風だ料理屋は福美屋、山月、妻鶴、三好館、花月等で多くは支那室を日本風に折中したのだ芸者は動乱前は百二十人も居り其に擬(にせ)芸者が大分居ったそうだが動乱で一切追払われて仕舞った


長江流域の日本人(六)
武漢

日清汽(ママ)の現状
これで大体話が済んだのだから大動脈の大機関たる日清汽船のことを話そう、日清汽船は元を郵船と大阪商船と湖南汽船とが各単独の営業にして居ったのだが明治四十年に三社合同して日清汽船会社が出来た然るに四十年四十一年四十二年は長江沿岸の水害と各国の汽船会社の競争で急に噸(とん)数を増加した為めに利益はなかったが会社は一方に於て経費を節減し一方に於ては大に業務を振興したので四十二年には僅かに二分の配当しか出来なかったのが三年には五分、四年五年には六分の配当をなすに至った今では各国の各会社を凌駕して中清(ちゅうしん)大動脈の覇権を掌握してしまった

各国競争汽船
長江航路の各国競争汽船は上海漢口線に於て最も盛んである英国は三社(太古、怡和、鴻安)十隻を有し清国は一社(招商局)五隻を有し、仏国は一社(東方公司)二隻を有し独逸は一社(ノルド、ドイッチェ、ロイド)三隻を有し我日清汽船の六隻に対抗するのだ、七社合計二十六隻四万五千余噸の汽船が互に舷(げん)を磨して相争うの状は、実に天下の壮観である、上流は之に比すると聊か寂寥の観がある漢口宜昌線で英国は二社(怡和、太古)二隻、日本は一社(日清)二隻だけしかない漢口常徳(武陵)線は日清汽船の独占で一隻の特別汽船を往復せしめている鄱陽湖線は英の太古と日清の競争で各一隻ずつを航江さしている、こんな工合で各国は日清汽船の勢がだんだん強くなるのを見て一時同盟して日清汽船を圧倒しようと計画したが其にも拘わらず日清の勢力は隆々として却て英独仏清を圧倒するの概あるは快心の事である

長沙の貨物
序でに長沙の事を少しく話そう、長沙は湖南の都で人口五十万と称している城郭は長方形で十五哩(まいる)あるという、此内にある市街は清国第一の清潔な町で街の幅は二三間しかないが二階造りが少ないから風通はよし光線は通るし共に道路は石を敷きつめてあるから我東京のように雨が降れば泥濘、風が吹けば黄塵万丈というようなことはない日本人の商店は三井、日清汽船が大きなので地[他]は小売商人である然し日本の貨物は洋傘、シャツ、石鹸、歯磨粉、海産物、綿布、綿糸等中々入っている、ここから輸出する産物は桐油、毛皮、米、小麦、胡麻、漆、珠玉類で大分日本へ輸出される、要するに長江の輸出品は約百万噸で日本へ二十万噸欧洲へ三十万噸沿線へ十万噸南北清へ四十万噸だそうだ、これから良政府が出来たら内地の農工業が発達して輸出は非常の勢で増加するだろう(完)

(原文は旧字旧かな。新字新かなに改める。[]は、判読困難・不能な箇所あるいは誤植と思われるものを筆者が推測で補ったもの。「□」は、判読不能の字。)

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