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日本の都市(二十四)~(二十五)前橋市

日本の都市(二十四)~(二十五)(「東京時事新報」明治45年(1912)1月10日-11日)

日本の都市(二十四)
前橋市(上)

上野国の中央より稍や南方に位して所謂上野平野の中部に在り松平直克の旧城下にして今は二市十一郡を統治する群馬県庁の所在地たり東西三十二丁南北一里二十三丁、戸数八千三百人口四万五千百五十五、県下第一の都邑にして明治二十五年四月始めて市制を執行せり東北南の三方は勢多郡に接し西は利根川を隔てて群馬県に境す上毛三山の一たる赤城山は東北に同く榛名山は西北に聳え恰かも緩く市の障壁を為すが如くに見ゆ利根川より取入るる二大用水を広瀬川桃木川と云い広瀬は市の中央を貫き桃木は東を流れ支流を分ちて縦横を通じ水利の便頗る宜し勢多群馬の両郡は地味肥沃にして農業盛んに殊に蚕業は横浜開始の当時に於て已に其名声を海外に恣にし此地産出の製糸が優に他国産を凌駕すること今更絮説する迄もなからん
前橋城址は利根川を背にして東面す昔文明年間太田道灌の築造する所にかかるとも云い又長尾氏東国を鎮むるに当りて経営せしものなりとも伝う織田氏の時に滝川一益是に拠りて関東を制し徳川氏に至りて平岩親保其城主たりき慶長六年酒井忠重来り居りしも陞進加封せらるるに至りて姫路に転じ松平直賢結城より入りて其後を襲う然るに明和四年利根川の氾濫に由りて城塁破壊したる為め廃城し松平氏は一旦武蔵川越に其封を移したる事ありしも文久三年大和守直克の時に至りて再興修理を加え再び此処に戻(よ)りて王政維新に及べり今の群馬県庁は則ち城廓の一部に在り周囲の橋松亭々として当年の面影尚お偲ぶを得べし
国道たる中仙道は市を東西に貫き県道又南北に通ずるの外(ほか)里道は幾条となく四方に延びて市内の運輸交通を利便にし利根の引水(いんすい)に由る水運の利用と相俟って些も間然する処なきが如し殊に旧日鉄の中仙道線と旧両毛鉄道線とは此地に交叉して貨客の集散に任ずるの外有名なる温泉場たる伊香保、四万、草津等の浴客は電気鉄道に由り市より其目的地に北行するを得べく更に乗合自動車あって高崎市との間を日々数十回往復す又最近に於ては市より佐波郡伊勢崎に通ずる電気鉄道敷設の計画あり近く事実として出現すべく又電話は去三十八年始めて開通を見たるが目下の加入者は五百数十名に達して盛んに其利便を享受す
市の教育事業を見るに普通教育は之を桃井、中川、敷島、久留島の四校に分ち百二十名の職員教務に鞅掌(おうしょう)す桃井は二十四年九月の創立にして始め連雀町にありしが四十三年に至り工費四万余円を投じて南曲輪町に新造移転し中川は三十一年十月の創立にして芳町に、敷島は三十年十二月の創立にして国領町に、久留島は三十九年の創立にして前代田町にあり総学級数は尋常四十四高等十にて児童実に校舎に溢る又市立高等女学校は旧桃井校の校舎を充用して設備甚だ不完全なりしが本年度より県立に変更する事となりそれが多少の改善を見るを得べきか又私立学校としては共愛女学校、明治裁縫学校、和用裁縫女学校、前橋幼稚園、洗心幼稚園等あり中等教育機関には男女師範前橋中学等あるも何れも県立にして市の関する処にあらず
市の救済事業には前橋育児院あり上毛孤児院あり前者は篤志者の寄付及び国費県費の補助を得て支弁し後者は去二十五年の創立にして爾来収容する院児約百人現に六十三人を育成す前橋積善会は古く明治十三年の設立にして三十五年市内の各宗寺院協会の管理に移り鰥寡孤独或は窮貧者を救恤すること二十余年、会員組織にして去三十七年には付属病舎を建設し又別に婦人部ありて三百有余の会員を有す其他県立感化院あり又免囚保護事業としては市内天川町に橋本園なるもの設立せらる私人の経営なるも去二十七年以来百二人の免囚を収容し保護感化の結果正業に就きたるもの六十二人を出せり又自敬子守学校なるものあり校主明峰栄泉氏熱心経営の為め校運日を追いて盛なるが如し又前橋尚武会なるものあり市役所内に其事務所を設け軍人遺家族の救護及び入営者の予備教育等に当りつつあるが是又相当の効果を収む


日本の都市(二十五)
前橋市(下)

前橋市の産業は云までもなく繭糸(けんし)を以て第一位となすが故に其勧業行政の主力も又繭糸生産の事業に注かる始め前橋生糸は提造(さげづくり)糸にして取扱の不便少からず殊に海外の注文に適当せざりし為め有志相謀りて器械揚捻造(あげねじづくり)に改め而して販路を米国に求むるや頓に声価を高め益々需用を増進するの盛運に向えり是即ち我邦に於ける坐繰糸器械揚捻造糸の嚆矢なりとす次で明治二十二年五十所の蒸汽器械製糸所を設けて製糸法の伝習を開始し伝[習]生を養成したる其組合こそ即ち今の交水社にして社は明治四十二年に至りて組織を変更し組合地区を市内並に勢多郡一円に限定し組合員の製造にかかる生糸を受託販売することとなれり而して最近一箇年の取扱数量二万四千七百五十貫此価格百三十二万円に達し郡部の南三社と共に海外に於て非常の名声を持続す而して此事業に関し市は直接何等の関係する処なきも創始以来今日の盛大を贏(か)ち得たるもの即ち市の勧業助長行政に負う処少しとせざるなり
交水社の外(ほか)尚お前橋生糸、前橋繭糸、[前]橋撚糸、前橋熨斗糸等の各同業組合あり従前は生糸相場の昴低に齷齪(あくせく)して永久的なる工場経営産業発展の観念に欠くる所ありしが市当局並に有志の熱心啓発指導したる結果は近年に至り稍や其着眼点を一新し来りたるが如く将来を達観して堅実なる計画に出づるの風を馴養したるは喜ぶべき所と云べし而して市は又市農会の事業を補助し園芸会同好会等をも督励し農業の助長に努む又利根電気会社は専ら電力供給の件に当り市内を始め伊勢崎、太田、館林等悉く此会社に由りて工業並に点灯に非常の利便を享受しつつあり
市の衛生事業は一般に幼稚にして見るべきもの殊に少し是れ繭糸取引の盛大なる土地柄として資金の運転頗る活発、一般の気風粗野奔放にして思(おもい)を百年の後に馳する衛生設備の如きに頓着せざるの致す処ならざるか即ち彼(か)の上水道工事の如き幾度か論議計画せられて未だ実現の時機に入らず僅かに一の伝染病院を有するの外(ほか)日本赤十字社群馬支部の経営にして工費約十万円を以て赤十字病院分院の新造中なるが右は市の事業を以て目すべきものに非らず衛生組合は市内に四十余箇所設置せられ組合員数八百余名あり市内掃除は市役所吏員之を監督して汚物の除去に当ること自余の諸都市の如し
前橋公園は群馬県庁を北に距る一丁の地点にあり明治四十二年市は此地付近を一区画として拡張を企て面積九千六百余坪を有して園地を修め花樹を植えたるものにして其利根川に臨む提上には桜樹列を成して断崖数仭風光最も賞すべし園内には臨江閣並に貴賓館の二大建築物あり県市の社交団体たる前橋倶楽部は之を貴賓館内に置く臨江閣は和風二[層]楼をして去二十六年大元師陛下行幸の砌畏くも行在所に充てられ次で東宮殿下行啓の時鶴鶴駕(かくが)を此処に駐められたる光栄ある歴史を有せり園内東照宮祠畔の崖下より岩神町に至る利根河畔一帯の地を敷嶋河原と呼び稚松全面を覆いて逍遥の好適所たりしが往年河身の変更によりて砂磧堆積今は全然旧観を留めざるに至れり市民の娯楽機関として柳座及び前橋座並に寄席活動写真館等あるも特に記するの価値を有せず
前橋市現今の市長を今鉄平氏と云う元県下太田警察に署長たりしが去三十九年市助役に挙られ更に昨年新市制の実施と共に市長に推薦其椅子に就けり助役は大須賀厳氏にして帝大法科の出身にかかり一旦群馬県属たりしが程なく辞して現職に任じ市長を補けて令聞あり市の吏員数は市長助役収入役同代理各一名、書記三十余名、掃除監督長一名同心得一名、掃除巡視五名、合計四十余名にして名誉職参事会員六、区長四十同代理者四十、学務委員九、衛生委員七、励業委員五、市会議員三十名たり財政状態を表示するに左の如し

(表。省略)

今四十四年度歳出入予算に於て重なる項目を摘記すれば歳入に於て市税六万三十四円、雑収入一万四十円、繰越金五千九百九十三円、県費補助五千六百六十二円等、歳出は教育費四万三千八百八十五円役所費一万七千三百二十七円、警備費四千四百五十四円、土木費二千二百九十九円公園費千九十七円等にして経常歳入出合計七万七千四百七十九円たり又別に一万二千円の公債費臨時支出あり(完、次は仙台市)

(原文は旧字旧かな。新字新かなに改める。[]は、判読困難或いは不能な箇所を筆者が推測で補ったもの。「□」は、判読不能の字。)

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