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「秘露の日本移民」

秘露(ペルー)の日本移民(「中央新聞」拓殖欄、明治45年(1912)4月29日)

渡航者減少
南米秘露への移民は一時非常に盛んとなり、渡航者の数も優に六千人を越ゆる有様であったが、或る事情の為めに種々の風説が伝えられた結果、渡航志願者の数が頓に減じ、又先に渡航した人々も多少帰国したりなどで現今秘露に在留して居る移民の数は約四千人ばかりであるが、此等の移民は全部甘蔗(かんしょ)、棉花の耕地か、又は製糖会社に働いて居るのであるが、比較的多数働いて居る耕地は英国製糖会社のカニエテ耕地(約千人)サンニコラス耕地(約六百人)バラモン(三百人)などで他(た)は百人、五十人、三十人と各耕地に散在して居るのである。就中、最近に渡航したものは、昨年末に三百人と、今年の春二十人ばかり森岡商会の扱いで渡航したに過ぎないが、同会社は目下サンニコラス耕地よりの註文で約三百人ばかりの移民を募集して外務省に出願中であるから、此等の移民も遠からず渡航する事になるであろう。而して秘露への移民の原籍は岡山、広島、山口、熊本、福岡、沖縄などが最も多く、東北では福島其の他の県からも多少出て居るのである。

労働賃銀
近来、此秘露への日本移民は最初から悉く契約移民であって其の契約期間が以前は四年であったけれども、六箇月を経過すれば何れの耕地にでも転ずる事が出来たが、昨年以降は其の期間が二箇年となり厳重にそれを守る事になって居る。又た此れ等移民の労働賃銀は普通労働一日十時間で一円二十五銭(工場に通うものは十二時間労働である)というのが規定であるが、近時(きんじ)分量制度になってからは、時間外の勤労次第ではより以上の収入がある。又其の労働も熟練さえすれば、一日分の分量は日本人の約半日間の仕事位なものであるから、充分熟練したものが一箇月七十円前後の賃金を得て居(い)る者は決して珍らしくないのである。而して此等移民の生活費は怎(どん)な程度であるかと云えば、此は人々に依って異なるけれども、普通十円内外で支弁が出来るから一箇月二十六七円の貯蓄は出来る筈である。而して此の契約移民は渡航旅費九十円は自弁であるが、二年働けば帰国費として五十円を会社から渡す事になって居り、病気の時は会社が治療して呉れるし、家は無料で貸与するのである。

日本式の生活
秘露移民に対しては一時非常の非難があったが、現今在留して居る者は極めて愉快に働いて居る。殊にカニエテでは移民が自治制を敷き村長を選挙して日本式に生活して居(お)る。又契約満期の者は自ら資本を出して漁業、農作、商業、理髪業、料理店等を営んで居る者も少くないが皆相応に貯蓄もして居るし送金もして居る。又ずっと内地に入って護謨栽培に働いて居る者も五六百人はあるが、此の方は一日二円五十銭前後の賃銀を得て居る。其の外単独で渡航して商業を営んで居る者には森本、橘谷(きつたに)等という人々もあるが、全体の気候も潮流と山脈との関係から非常に凌ぎよく調和せられて居るし、加之(しかのみならず)、資本家は非常に日本移民を歓迎し渡航さえ出来れば何程でも需要があるのであるから北米の塞って居る今日では大に有望の移民地であるという事が出来る(南米帰客談)

(原文は旧字旧かな。新字新かなに改める)

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