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日本の都市(二十二)~(二十三)長野市

日本の都市(二十二)~(二十三)(「東京時事新報」明治45年(1912)1月7日、9日)

日本の都市(二十二)
長野市(上)

長野は元善光寺町という蓋(けだ)し海内無双の大蘭若(だいらんじゃ)たる善光寺此地に在りて門前の民家次第に駅市を為したるに因れるものか、其長野と改めたるは維新の後ち県庁に置かれたる当時よりの事にして名は善光寺々中並に門前の南方なる村名に基くと云えり従前共に越後越中より江戸へ通ずる駅路に当り且つ大霊仏を擁するの故を以て信中の小繁華に推され□るものなるが近年全信の政治的中心と為り殊に信越線並に中央線の共に此地に着□するに至り富庶頓に加わり面目又全く一変したり市街は東西二十七町四十間、南北二十七町二十間、周囲四里三町、面積零、七一方里、最近の調査にかかる戸数七千二百六十一人口三万八千九百四十四人を包有す
明治三十年四月始めて市制施行の際は戸数五千五百二十二、人口二万九千三百八十四に止まりしが爾来十有五年にして戸数に於て千七百、人口に於て約一万を増加したるのみならず東北方は三輪村吉田村に連り南方は芹田村に続き何れも市街を形成して土着人士と雖も容易に其境界を識別する能わざるが如く是等接続村を合算すれば戸数恐らくは一万人口五万の上に出(いず)るなるべし而して県庁、大林区署税務監督局、鉄道院各事務所、同工場、県市立各学校等悉く集まりて此街衢に連り将に落成せんとする長野県庁舎の正門前に開設せらるべき新道路の両側には盛んに人家の築設を見て今や南長野の新市街を現出せんとするの盛況に在り其(その)茲(ここ)に至りたるもの前記信越線、中央線の開通連絡に依り貨客の集散次第に増加するに基くこと勿論なりと雖も抑々(そもそも)又四辺に善光寺平の沃野を控え内には中世以来四民渇仰の目的物たる善光寺の大伽藍を包容するに由らずんばあらず
善光寺は市内の高地に在りて寺境を箱清水と云う南面して閭巷を俯視す広大なり其殿堂は屡次(しばしば)火災にかかり現今存する所の本堂は実に元禄十三年の修造に出づと云う其本尊は百済国聖明王より奉れる弥陀三尊なりと云い寺の別当は栗田氏の世業なりしが近世に至り天台、浄土二宗の僧尼之を奉事し天台の大勧進、浄土の大本願以下四十六坊之に付属す本堂の東方に当り一公園あり市民は常に此処を以て四時共楽の巷となし来たれるが去三十三年東宮御慶事の大典を記念せんが為めに市有公会堂たる城山館に沿える眺望佳絶の丘上に紀念公園を増設し翌同三十五年殿下行啓の際は特に玉歩を運ばせられたる光栄ある事蹟を有せり而して又四十一年の府県連合共進会に当り善光寺東の公園を城山方面に拡張して共進会の敷地に貸与し城山館に続きて貴賓館に充つるが為め応春閣と云える一楼を新造したるが今は城山館の一部として市有公会場となれり此地本年度の事業として更に本堂西方の人家を取払いて西公園を開設するに決し此費額二万円を支出したるが斯くて長野市の公園は善光寺を囲みて三箇処の多きに達し花の朝(あした)月の夕(ゆうべ)、市民の逍遥散策に些(さ)の不足を感せざるに至れり
市の普通教育事業は城山、後町、鍋屋田の三小学校にして此生徒数四千四百四十七人就学歩合は児童総数の九九、三二に当れり特業教育には甲種商業学校あり盲唖教育所あり子守教育所あり商工補修夜学校あり又去二十九年未だ市制を施行せざる以前に於て県下に率先設立したる高等女学校ありたるも四十二年に至り県立となる右の外(ほか)私立の宗教学校、裁縫学校、県立の師範学校、中学校等あるは云うまでも無く長野市教育会は時々講演会、講習会等を開設し信濃教育会の事業たる信濃図書館と相俟ちて一般社会教育の為めに尽しつつあり


日本の都市(二十三)
長野市(下)

各種の教育設備中特に傑出したるものとしては指を盲唖教育所並に子守養成所に屈せざるを得ず教育所は去明治三十三年の創立にかかり三十六年に至り唖生科を追加したるものにして校長を小林照三郎氏と云い現在収容する生徒四十余人寄宿舎の設備あり教員中の花岡初太郎氏の如き曾(かつ)長野県師範学校在学中眼疾にかかり盲目と為りたるが学業を廃せず東京盲唖学校に入り卒業の後ち郷国の盲人教育に尽瘁して以て今日に到りたるものにして同情の心頗る深く成績極めて良好なりとして文部省より已に再三の表彰を受けたり又養成所は善光寺境内に雲集する子守等の其遊戯消閑に一定の規律なきが為め知らず識らず風俗を害し健康を傷(きずつ)くるを予防すべく設立せられたるものにして去る明治二十七年の創開にかかり現在は城山並に後町の二箇所に在りて生徒数百人内外、後町の[町]長中村多十氏の如き背後に負わるる小児の泣声に由りて病気、倦怠、要求等の種別を直覚判知するの熟練を有し是又成績抜群のものありとして文部内務両省より表彰せらるるに至れり
市の発展は善光寺門前の民家が次第に増加して遂に県市を成すに至れること前項の如くなるを以て其道路の状態を見るに若松町新道の外(ほか)三四条の新に拡大改修せられたるものを除き他は頗る狭隘にして車馬の来徃一方(ひとかた)ならぬ困難を感ずるものあるが如し左れば当局に於ても市財政の能う限り道路の拡張改修を計画しつつあるも未だ旧時の面目を一新する能わざるは遺憾なり又家屋建築に関しては古来其様式に塗家建を用うるの外(ぼか)何等の制限なく善光寺に接したる元善町は先年の大火に由り地主たる大勧進大本願と協定して柱長(ちゅうちょう)に制限を加うるの方法を採りしも程なく之を解除し今は唯だ大伽藍保護の為めに山門下の家屋一帯を除去したるを見る
劇場には千歳座三幸座を有し寄席に鶴賀亭あり又輓近の流行物たる活動写真或は浪花節等の開設あるも是等旧新の演芸が如何なる影響を市民の風紀上に及ぼしつつあるかは一の疑問にして或は反対の結果を生ずることあらざる可きか又音楽堂は去四十一年の府県連合共進会の際新設したるものを市に譲受けたるものにかかり其建物は依然公園内に残存するも曾て奏楽の音を聞きしこと無く一種の装飾物に止まるは是非もなき次第と云べし又救済事業としては市の経営に係るもの無く善光寺大勧進の事業として長野養育院なるものあり県は之に対し毎年三百円を交付して其篤志を輔く
長野市には未だ上水道の設備なく河水若(もし)くは井水を以て当面の需用を充たせり左れど市務の発展に伴い常に其供給に不足を告ぐるのみならず市民の衛生上又頗る考慮すべきものあるを以て市は本年度より向う五箇年の継続事業とし水源を戸隠及び芋井村の上ヶ屋に求めて之より引水人口八万を標準として上水道事業に着手するに決し工費約八十二万円中(ちゅう)二十万五千円を国庫の補助に求め同じく二十万五千円を県費の支出に得て他は新(あらた)に市公債を募集し之に充てん計画を立てて曩(さき)に主務省に申請中なるが未だ決定に至らず又市民の園芸奨励の為めには園芸組合なるものを設け熱心奨励の結果市の特産と目せらるるに至りしものには西洋林檎あり又商家以外の部落には長野市農会ありて市は毎年二百円の補助を与う此外産業組合方法に拠れる信用組合二及び各所に貯蓄組合等ありて産業助長、貯蓄奨励に努めり
市の四十四年度歳入出予算は総額十七万三千五百九円五十九銭にして此他特別会計に属する公園費二万五千百七十五円四十六銭あり歳入の重なるものは云う□[で]も無く市税にして其額十一万四千二十九円余たり重なる項目左の如し

(歳入出の表。省略)

右の外(ほか)臨時費に於ては土木費二万千九百三十二円、教育費千九百二十二円、衛生費四千百十七円、寄付金一万三千円、水道調査費二千六百八十八円、公園繰入費二千三百七十六円、市債費五万四千百三十九円等あり市債は連合共進会又は県庁舎新築寄付等のため数次に起したるもの少からざりしが漸次に償還して現在の残額は七万三千円に止まる而して此内又四万七千三百円を来年度内に償還するを以て市の財政基礎は先(まず)は安全確実のものなりと云うべく近く上水道の大事業に着手するも従来の歳計に著しき変更を加うること無く即ち是まで年々市債を償還し来りたる程度に於て支弁完成することを得るの予定なり
去る三十一年自治制施行第一の市長を佐藤八郎右衛門氏と為し県下小県郡塩尻村の人なるが任期約二年にして退職し次で市内の名望家鈴木小右衛門氏上任在職十有二年の長きに及べり鈴木氏に次で昨年四月牧野元氏就職して今日に到る牧野氏は県下下伊那郡鼎村の出にして戸長県会議員、県会副議長、県参事会員等を経て衆議院議員に選まる後ち前市長鈴木氏を補けて助役に挙げられ鈴木氏退くの後市長の椅子に椅れり年五十二、現任助役は嘗て長野県属或は南佐久郡書記たりし岩下鉄之助氏にして事務家として令名あり年三十九(完、次は前橋市)

(原文は旧字旧かな。新字新かなに改める。[]は、判読困難或いは不能な箇所を筆者が推測で補ったもの。「□」は、判読不能の字。)

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